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才能より努力、「好き」「おもしろい」が私の基準。 オリコン売上ランキング一位に輝いたミュージシャン
才能より努力、「好き」「おもしろい」が私の基準。
オリコン売上ランキング一位に輝いたミュージシャン
ミュージシャン、編曲家、特定非営利活動法人 I Loveつづき理事長、NPO法人ミニシティ・プラス事務局長、NPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ理事、NPO法人テレワークセンター横浜理事
岩室 晶子さんAkiko Iwamuro
- わたしの強み
- あきらめないこと
- このしごとに必要な力は?
- 傾聴力、コミュニケーション能力、決断力
- 年齢
- 56歳
- 家族
- 夫、息子
- 音楽とまちづくり〜やっちゃえ!ジブン
4歳から「音楽な日々」。夢は作曲家になること
愛知県で生まれて、4歳からピアノを習いにヤマハ音楽教室に通っていました。作曲を始めたのは、小学校3年生のころ。ヤマハが自分で曲を作って演奏するクラスを試験的に始めて、そのメンバーに選ばれたんです。
4年生になるとデパートで演奏したり、音楽の発表会のゲストに出たり。自作曲を演奏する子どもは、当時はとても珍しかったので、週末は演奏活動が続いて、ほとんどしごとのようになっていました。でも、実はピアノの練習が、あまり好きじゃなかった。だから、ピアニストじゃなく、作曲家になろうと考えていました。女性の作曲家ってあまりいなかったし、なれたらかっこいいなと。
中学高校とずっと「音楽な日々」を続けて、愛知県立芸術大学作曲科に進学しました。大学では現代音楽を専攻しましたが、本当にやりたかったのは、たくさんの人に聴いてもらえるポピュラーミュージック。それで、自作曲を名古屋フィルハーモニーに持ち込んだら、指揮者の外山雄三さんが気に入ってくれて、演奏が決まりました。自分で作った音楽が認められて、すごく嬉しかったですね。
でも、大学の先生には相談していなかったので、ひどく怒られて…。半ば喧嘩のように大学を中退してしまいました。音楽の世界では、学生は先生についた門下生、師弟関係がとても厳しいんです。
音楽大学を中退して、憧れのジャズ専門学校へ。極貧生活も経験
大学を辞めて23歳の時、目黒の「音楽学校メーザーハウス」が特待生を募集しているという記事を見つけました。そこはピアニストの佐藤允彦さんや、「ユニコーン」「プリンセス プリンセス」などをプロデュースしている笹路正徳さんが講師を務めるジャズ専門学校。すぐに受験を決めて、500人の受験生のうち、二人の特待生の一人として入学が決まりました。
授業料は免除されましたが、名古屋から上京しての生活は苦しかったですね。これまで私に散々お金をかけてくれた両親に、これ以上迷惑はかけられないと思って、生活費は自分で稼ぐと決めたものの、学校には行かなくちゃならないし、課題も多くて、アルバイトする時間があまり取れない。パン屋さんに行ってパンの耳をもらうような極貧時代もありました。
アルバイトは、ヤマハの教師向けの採用試験問題を作る、幼児用の教材の楽譜を書く、時計の目覚まし音を作るといったものでした。ちょうどカラオケが広がり始めた時期で、過去の歌をカラオケ用にアレンジするしごともありました。食べるためとはいえ、自分の練習時間や作曲する時間が取れないし、周りのレベルも高くて、私の音楽なんて価値のないもの、と精神的にどん底の時もありました。
海外をまたにかけた演奏活動。ロックバンドにも参加して全国ツアー
それでも、学校に通いながら「どんなしごとも断らず、ていねいに」をモットーにしていたら、少しずつ依頼が増えていきました。
転機は26歳。ヤマハの電子ピアノやポータブルキーボード販売のため、海外へ演奏に行くしごとが来たんです。年に3~4ヵ月海外に行って、デパートや教会で楽器フェアやコンサートなどのプロモーション活動をする。欧米はもちろん、アジア、中南米も含めて20数カ国は行きましたね。現地のテレビ番組に出たこともあります。会社が事前練習の分も支払ってくれたおかげで、帰国後しばらくは働かなくても食べていけるようになりました。
最初は、マネージャーがついていたんです。でも、だんだん一人で、交渉、打ち合わせなど全部やるようになっていきました。英語が得意なわけではないし、習慣も違うから、厳しい場面もありましたが、すごく楽しかったですよ。海外でしごとをするためのコミュニケーション力も養われました。
30代に入ったころ、突然、ビジュアル系のロックバンドに誘われました。バンドの後ろで、サポートでキーボードを弾いているうちに、だんだんのめりこんで、バンドの正式メンバーになっちゃって。機材車を交代で運転して、全国ツアーを回りました。
起業のおもしろさに目覚めた34歳。エアロビクス曲の制作が大当たり
バックバンドで演奏、レコーディング、編曲、作曲、いろいろなしごとを断らずにやっていたので、だんだん忙しくなって、34歳ころ、当時、結婚はしていなかったのですが同居していた夫と、スタジオや駐車場を借りて、チームでしごとをするようになりました。
当時エアロビクスにハマって、熱心にレッスンに通っているうちに、日本ではエアロビクスの曲を出している会社がどこにもなくて、インストラクターが、アメリカで買ったテープの回転をあげたり、動きに合わせて無理やり音を変えたりして、自分で修整、編集していることを知りました。
日本に無いなら私がやったら売れるかも、日本の楽曲でエアロビクス用の曲があったらおもしろいかも、と思って、最初に4本作って、エアロビクスの専門雑誌に広告を出したら、雑誌が出たその日から、注文の電話が鳴りっぱなし。求められていたんだと確信しました。パッケージデザインも工夫して、買ってくれそうなところにDMを送ったら、どんどん売れる。自分で考えたことが、形になって受け入れられることのおもしろさ、醍醐味がわかりました。起業っておもしろい! エアロビクスで日本の曲が流れたら、それはたぶんうちで作ったものですよ。
35歳で妊娠・出産。ママは金髪のバンドマスター
35歳で妊娠・出産、子どもが1歳の時、環境のいい横浜市都筑区に引っ越しました。
私、出産5時間前までしごとをして、出産後1週間で復帰したんです。こんなにしごとが忙しいのに、私のようなフリーランスは、子どもを保育園に入れることがむずかしい。近所の保育園に通い詰めて、しごとの内容を説明したり、私が作った曲が使われているビデオを見せたりして、ようやく入園を認めてもらうことができました。
とはいえ、スタジオでのレコーディングなどは夜中までかかるのが当たり前。夫と交代で子どもの面倒を見るだけでは全然足りなくて、エスクという家庭保育サービスをフル活用、ママ友にもお願いしまくって、乳児期はなんとか乗り切りました。
子どもが少し大きくなってからは、どうにもならない時はスタジオに一緒に連れていくこともありました。スタッフが面倒見てくれて、スタジオの片隅に寝かせて。周囲の理解が、ありがたかったですね。その経験が地域に貢献したいという思いにつながり、今、私が理事長をさせてもらっている、まちづくりのNPO法人 I Love つづきに関わるきっかけになったと思います。
子育てまっ最中の38歳のころ、元ピンクレディーの未唯mieさんが「アニメタルレディ」という、アニメ曲をメタルにして歌うグループを結成していたとき、キーボードとバンドマスターをやらないかと声をかけられました。私は、シンディって名乗って金髪にして、楽譜を書いたり、全国ツアーやディナーショーに出たり。とても楽しかったですよ。5、6年やっていました。
未唯mieさんの初仕事のコンサートのリハーサルの日、子どもが体調を悪くして入院したんです。急いで実家の母に来てもらって、私はリハーサルに駆けつけました。バンドマスターとして、舞台に出るタイミングとか衣装の着替えとか、演奏以外のことも気を配らなくてはならない。初めての大きなしごとで緊張していたというのもあると思いますが、演奏を始めた途端、子どものことは全部忘れました。その集中力って、自分でも恐ろしいくらい。本当に子どもには申し訳ないですけれど、演奏している間は、いっさい思い出さない。しごとが終わった途端、一気に、いろんなものがドバーッと来ました。
子どもが怪我をしてもそばにいてやれないということは、ほかにも何回かありましたね。でも、私がいないと演奏が成り立たない。帰れないです。
「羞恥心」の編曲を手掛け、大ヒット。年間作曲家売上ランキングで一位に
子育てとしごとで、寝る間もないくらい忙しくて、このままでは潰れてしまうと感じて、これからはしごとを選ぼうと決めました。それまで、「来たしごとは断わらない」がモットーでしたから、本当にドキドキしながら交渉しました。大きいしごとを落として、寝込みそうになったこともあります。
音楽のしごとで、やりきったなと思えたのは、フジテレビ系列の「クイズ!ヘキサゴンⅡ」のしごと。番組から生まれた「羞恥心」「Pabo」などのグループの曲を編曲したことです。約2年間、月に何曲もリリースして、それがいつもオリコンの10位以内に入っているという不思議な体験をしました。「羞恥心」が出した「羞恥心」という曲が一番売れましたね。ほかにも、つるの剛士さんや里田まいさんのソロもやらせてもらって、その年のオリコン・ランキングでは、もっとも売れた編曲家となりました。
編曲のしごとはとても緻密です。「羞恥心」は1980年代アイドル風の衣装になるからサウンドも同じようにしてほしいとか、踊る部分とイントロはこれくらいの長さ、テレビ向けに1番は派手に作ってほしいとか、こまかく要望を聞き出します。スタジオに入ったら微細な音の調整をしてギターや弦楽器の楽譜を書いて、演奏家のチェックをして…と、最高のものをつくるために、さまざまな調整を重ねていきます。
演奏家や歌手の方と積極的にコミュニケーションをとること、傾聴力は編曲家にとって、重要な能力の一つだと思います。そして、最後に、絶対的な自信をもって「これでいく!」と決断する、その力も編曲家に求めらます。
「ヘキサゴンⅡ」のスタッフは第一線で活躍している方ばかりで、すごく勉強になりました。売れてくると、周囲がどんどん優秀になってくる。何も言わなくても、私が思ったとおりの、時にはそれ以上のものを出してくれて、気持ちよくしごとができる。すると自分の評価が高くなってまたしごとが来る。トップレベルの人としごとをするというのは、こういうことなんだと感動しました。
09年のFNS26時間テレビは「ヘキサゴンⅡ」のメンバーがメインで出演したので、私が編曲した曲がその間流れ続けて。CM以外は全部自分が手掛けた曲だったんですよ。嬉しかったですね。
才能より努力。そして自分のキャパシティを広くすること
音楽の世界では、才能がものをいうと思っている人が多いと思います。でも、私は、才能より意志の力、努力が勝ると思います。自分には音楽しかない、絶対音楽家になるんだって人は、必ず音楽で食べていけるようになると思います。なりたいけど、なれるかなれないか…なんて言っているうちはダメですね。
ただ、間口を広くしておくことは大事です。だれもが、ジョン・レノンや忌野清志郎になれるわけじゃないですから。
海外の演奏活動といっても、私の場合、デモンストレーターであってミュージシャンではなかった。芸大を中退して、ジャズやったりロックやったり演歌やったり。遠回りしたように思うけど、いろんな音楽を知っていることが包容力になって、どんな音楽にも対応できるという自信につながった。レノンや清志郎になることをあきらめて、自分のキャパシティを大きくした結果、今の私がいるんです。音楽が好き、音楽に関わりたい、楽しんでできれば何でもいいって思えば、キャパシティはかなり広がりますよ。
ミュージシャンからNPO活動へ。「おもしろい」が活動の原動力
現在は、時間的にはI Love つづきなどのNPO活動が8割、作曲のしごとが2割という生活を送っています。I Love つづきの活動を始めたきっかけは、横浜市の広報誌で見つけた都筑区の生涯学習グループの環境問題講座を受講したこと。環境に全然配慮していない金髪で、おそるおそる参加してみたらおもしろすぎて。講座受講後、運営委員会をやりませんかと呼びかけられて、そのままI Love つづきに参加、今は理事長として活動しています。運営委員会への参加は、全受講者に呼びかけたらしいんですけど、私に呼びかけてくれたと勝手に思ったんですね(笑)。私、おもしろそうと思ったことは、ぜったい見逃しません。
たいていのことに「締切」があります。I Love つづきでやっているイベントも音楽のしごとにも締切がある。でも、私は、締切までは、ぜったい諦めない、いいものを作る努力を怠らないというのが、私のやり方です。そうすると、失敗と思うことがあっても後悔はしないです。これはこれとして、次につなげるんだって思えるんですよ。
すべてが自分のためなんです。失敗を周りのせいにしてたら、永遠に変われない。自分が変わらないと周りも変えられないです。
最近、神奈川県の商店街のテーマソングを作るしごとをやらせてもらっています。商店街の人たちが映像を作って、そのバックに流れる曲を作ったんです。
ここにきて、まちづくりとこれまでの音楽のキャリアがうまく融合してきました。私の曲が地域や街の活性化につながったら、すごくうれしいですね。すべてがエンターテイメント、どんなことでも楽しめるようにやるっていうのが私の信条なんです。
岩室さんからのメッセージ
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