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がん治療をしながら働く。 伝統の「横浜スカーフ」を描く染織家
がん治療をしながら働く
伝統の「横浜スカーフ」を描く染織家
山村染織工芸 染織家 山村あゆみさんYmamamura Ayumi
伝統工芸「横浜スカーフ」作家の家に生まれて
私が染織のしごとに就いたのは、今から7年前、43歳の時です。
横浜は港町、生糸の輸出がさかんに行われていた歴史があって、シルクのスカーフ制作には伝統があります。「横浜スカーフ」は、横浜生まれのシルク製品ブランドとして、世界的にも有名ですよね。私の父は、横浜マイスターにも選定されたスカーフのデザイナーで技能職者。自宅で制作していたこともあり、「横浜スカーフ」も染織のしごとも、幼いころから身近なものでした。
そういう環境のなかで育ったにも関わらず、私は、当初は染織の道に進むことは、全然考えていませんでした。美術短期大学に進学して、卒業旅行で京都や奈良の仏像を観て回って、すっかり彫刻の魅力に取りつかれてしまい、彫刻家になると決めました。
卒業後は、彫刻家として活動しながら、常勤、週5日で、美術短大の立体コースの助手をしていました。でも、作品は全然売れなくて。父に「いつまで彫刻を続けるんだ」と言われて、父のしごとを継いだほうがいいのかなとぼんやり考えながらも、27歳の時、一度目の結婚をします。
二度の結婚、離婚を経験。43歳で染織の道へ
最初の夫とは、価値観の相違があって、7年で離婚しました。結婚後も、短大の助手のしごとをしたり、幼児教室の教師をしたりしながら、彫刻を続けていました。ちょうど離婚を真剣に考え始めたころ、奈良の興福寺で特別拝観の解説のしごとを見つけて短期間、関西で働くことにしました。そのとき、今の生活ではダメだと思い、長く続けていた短大の助手のしごとなどを辞め、離婚して、関西に転居しました。そして、奈良の興福寺でのしごと中に出会った男性と二度目の結婚をします。大阪で暮らすようになって、すぐに長女を出産しました。でも、二人目の夫は定職がなく、私の貯金を切り崩しながらの極貧生活。そんな時、しごとを世話してくれていた女性社長に、「ここにいたらあなたの力を活かせないだろうから、横浜に帰りなさい」と諭されました。当時の私たちは、貯金も底をついて、将来の見通しも立たない。私は、一から出直そうと思って、横浜に帰ることに決めました。
ただ、横浜へ夫を連れて帰るつもりはなかったんです。でも、夫の親に懇願され、夫も私の家業の染織家を目指すと言ってくれたので、娘と3人、一緒に横浜に帰りました。横浜で新しいくらしが始まり、次女も生まれました。
「ヨコハマ・グッズ」認定を獲得。バラのスカーフでチャンスをつかむ
「ヨコハマ・グッズ横濱001(ゼロゼロワン)」は、きびしい審査に通って認定される、横浜発の地域ブランドです。父は、2006年に『横浜マイスター』に、2015年には黄綬褒章を授与した、私も尊敬する技術者。ですが、私が工房を引き継ぐことを真剣に考え始めたころ、父の作品が「ヨコハマ・グッズ 横濱001」の審査に通らないことがあったんです。
これは、私を奮起させるきっかけになりました。姉にも声をかけて、二人で、ブランド認定に挑戦することにしました。
実は、いっしょに横浜に帰ってきた夫が、だんだんとしごとを怠けるようになって、結局42歳の時、離婚したんです。次女が生まれる前からあった言葉の暴力がひどくなってたことも原因の一つです。二人の娘は、小学校2年生と4歳。姉や両親の勧めもあり、「これからは私がやる!」と覚悟を決めました。染織のしごと場があるし、父のしごとを近くで見てきたので「できる」自信もありました。
私は手描きのスカーフとムラ染めを、姉は墨流し染めをそれぞれ担当。手描きのスカーフを本格的に始めたのは、このころからです。私は絵を描くことが大好き。私が描くのは横浜からインスピレーションを受けたものが多くて、馬車道のアイスクリームやバラ。バラは横浜市の「市の花」でもありますよね。
そして、2009年の「ヨコハマ・グッズ」審査でブランド認定され、横浜高島屋で、「ヨコハマ・グッズ」の展示会に出展できることになりました。出展した年に横浜高島屋が開店50周年を迎えるということで、それからすぐ、50周年記念のバラのスカーフの制作を依頼されました。約100m分もの下絵のデザインを描いて、ダメ出しをされて描き直して、とても大変でしたが、できあがったときは本当にうれしかったです。それが縁で、新宿や日本橋の高島屋でも展示会を長年させてもらっています。
染織のしごとって、机に座って絵を描いているという、優雅なイメージがあるかも知れませんが、かなり過酷な重労働です。
うちの工房は、プレハブで冷暖房がないので、夏はサウナのように暑く、冬は花瓶の水が氷るほど寒い。そんな環境のなかで、13mの長い木枠にシルクを張って、絵を描いていきます。100m分描き終わったら、ボイラー室で蒸して、水で洗って、乾燥、裁断して、スカーフの形に整えていく。全工程、早くても2ヵ月はかかります。根気と集中力が要りますし、体力も必要です。それから、デパートの売り場や展示会で販売して、お客様の手に届く。
お客様と直接触れ合える展示会は、楽しいです。お客様に「素敵ね」とか「一点物のオリジナルを探していたの!」とお声をかけてもらえると本当にうれしい、何にもまして励みになります。
大腸がん発症、半年で4度の手術。リハビリを乗り越え、しごと復帰
高島屋の展示会が終わった2015年10月、急にろれつが回らなくなって、倒れてしまいました。ちょうど、実家で育てている稲の収穫が終わったころでした。検査してみると、大腸がんで、すでに脳に転移している状態。すぐに脳の手術をして、体調を整えてから今年の1月中旬に大腸の手術をしました。すると、また脳の同じところに再発して3月に再手術。もう大丈夫だろう思ったら、今度は肝臓に影が見つかり、7月に手術をしました。
約半年で4度の手術をして、一度は抗がん剤の治療を受けました。今は抗がん剤の治療を検討している最中です。脳は頭を開いての大手術だったので、術後はまっすぐ歩けなくて、右側の口元辺りと右手の親指と人差し指2本が動きませんでした。お箸も鉛筆も持てなくて、必死でリハビリをして。今はまっすぐに歩けるし、手の麻痺も回復しました。
自分でも本当にがんばったと思います。絵はもとから左手で描いていて、左手には、右手のような影響が出なかった。その点は本当に良かったと思っています。
一度目の抗がん剤は、副作用が強く出て、かなりつらかったです。主治医と相談して、抗がん治療も視野に入れながら、しごともやっていくつもりです。実は10月中旬に、めまいの症状に悩み、今までに経験したことのない不安に襲われました。けれど、来年の日本橋高島屋への出展も決まっているので、それを励みに少しずつしごとに復帰して、スカーフの絵柄を描いていきたいと思っています。
「好き」がしごとになる。これからも自分のペースで続けていきたい
天職とか適職とか言いますが、私は絵を描くのが好きで、その時間が最高に楽しい。「好きこそ物の上手なれ」といいますが、自分が得意なことを生かしてしごとにできるというのは本当に幸せなことです。
今までは、広いしごと場で絵を描いていたのですが、病気をしてからは自宅の一室でスカーフの絵柄を描いています。13mの木枠が置けるほどの広い場所でないとしごとができないと思っていたけど、狭い部屋でもできた。やろうという気持ちさえあれば、どんな場所でもできることはあるんだと気が付きました。
大腸の手術をしたので、今はストマ(人工肛門)をつけての生活です。そのために、5キロ以上のものが持てません。染料や水を含んだ布はとても重いので、染織の過程のいくつかはできなくなってしまいました。これからは全部自分でやらないで、姉にも手伝ってもらいながら、二人三脚でしごとをしていきたい。染織を学びたいという人がいれば、これから体力が回復したら技術も伝えていくつもりです。
自分のペースで染織のしごとを続けて「あゆみさんが描くこの絵柄がいい」「この色がいい」と言ってくれるお客様にスカーフを届けたいと思っています。
山村さんからのメッセージ
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