「フォーラム通信」2019年秋号

「横浜から男女共同参画社会の実現を考える」。公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会が発行する広報誌です。2019年秋号の特集は、「私、のからだ」「私、の生理ちゃん」。


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まだ名前の無い○○第2回「優先」できない社会を変えたい世の中には、「まだ名前の無い」問題が、山のようにある。しかし、もともとそこにあった現象に、「DV」、「セクハラ」、「パワハラ」等、名前を付けたことによって、その問題の存在が明らかになり、解決へと歩み出したことは多い。この連載では、号替わりの筆者による「まだ名前の無い○○」を、見つめていきます。去年の夏頃から今年の春まで、私は妊婦だった。それまでの私は、妊娠という現象に対してほとんどなんの知識もなく、でも、妊娠している女性たちに対して、ステレオタイプな妊婦像を投影することはしたくないと思っていた。母性に満ち溢れ、お腹に手を当て、穏やかな表情で微笑んでいる、化粧っ気のない、だぼっとしたワンピースを着た女性。世間的に描かれる妊婦の姿といえばそんな感じで、妊娠中や子育て中の友人たちから聞く話や、彼女たちの姿とも乖離していた。とはいえ、自分が実際に妊婦になってみると、以前の私は本当に何もわかっていなかったし、わかろうともしていなかったな、と気づかされることが多かった。妊娠していた友人たちの「大丈夫」という言葉を鵜呑みにして、早足で歩いてしまったことや、何かのタイミングで相手に動いてもらってしまったことが、何度も思い出された。様々な不調が段階的に上乗せされていく、待ったなしの体。その中で自分以外の生命体が育っているという緊張感と責任感。妊婦の言う「大丈夫」は、妊婦という時点で「大丈夫」ではない。そうすると、やはり気になったのは、交通機関の優先座席問題である。すでに席が埋まっているせいで、優先座席に優先されるべき対象の人が座れない、という事態だ。これまでに多くの人がすでに問題提起をしているし、タレントの人たちがSNSなどでこの件について声を上げているのもよく目にする光景だ。こういう時のコメント欄や感想を見ると、私はいつももやもやしてしまう。目に見えない理由があって座っている人もいるのだから、優先座席に座っている人を責める方がおかしい、優先されるのを当たり前だと思っているのにも違和感、といった言葉が少なからずあるのである。前半に対してはまったくその通りなのだが、だからといって理由もなく優先座席に座る人が多い今の日本の現状で、啓発する側を責めることに終始してしまう風潮が、とてもはがゆい。問題視してSNSに書いているタレントさんも実際に、そういう現場に遭遇した体験談とともに綴っているのだが、それを頭ごなしに否定するのは、個人の体験をなかったことにしてしまう。私自身は家でできる仕事なので、妊娠中に通勤する必要はなかった。電車はできるだけ空いている時間に乗るようにしたし(後半は、混む路線には乗らないようにしていた)、長時間乗らないといけないバスだったら確実に座れるように一本遅らせたりしていた。電車では、だいたいの場合、私が立っていると、男女を問わず「座りますか」と聞いてくださる方が多かった(そしてそれに対して「大丈夫、大丈夫です」と返してしまう自分がいた)。それでも、ホームの優先座席の乗り場で待っていて、乗り込む瞬間に、すでにサラリーマンで埋まっている優先座席ゾーンが目に入ると、これでいいのだろうかと考えさせられた。前述のコメント欄には、優先座席に座っていても、優先されるべき人が乗ってきたら席を替わるから問題ない、と書き込んでいる人も結構いるのだが、席が埋まっている時点で諦めて近寄らない人もいるはずだ。それに、それこそ目に見えない理由だった場合はわかりようがない。私が経験したことだが、まん丸の大きなお腹をした妊婦が目の前に立っていても、優先座席で寝たふりをしていたサラリーマンと、だらんと前に足を投げ出して携帯ゲームをやり続けていた男子高校生の姿は、この国では日常を「普通」に送れない対象は透明化しても非難されないし、真に「優先」されてきたのは誰かという事実を端的に物語っていた。混んでいる電車で、私の後ろ姿しか見えない位置にいた男性が、降りる際に背中を強く押してきたこともあったが、それは妊娠をしていない人にだってしないほうがいいことだ。しないほうがいいことをやらないと日常がスムーズに回らないのだとしたら、他者に優しくしている余裕がないのだとしたら、この社会の日常の設計そのものがおかしいってことなんじゃないだろうか。この設計を変えたい。●まつだあおこ1979年兵庫県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。2013年、デビュー作『スタッキング可能』が三島由紀夫賞および野間文芸新人賞候補に、14年、Twitter文学賞第一位となる。19年、『ワイルドフラワーの見えない一年』収録の「女が死ぬ」がアメリカのシャーリィ・ジャクスン賞短編部門の候補となる。その他の著書に『英子の森』『おばちゃんたちのいるところ』、訳書にジャッキー・フレミング『問題だらけの女性たち』など。『おばちゃんたちのいるところ』(2019/中公文庫)今春より発売された液体ミルクの素晴らしさに打ち震える日々です。哺乳瓶に移し替えなくてもいい商品も販売希望。【今回の担当は松田青子さんです】フォーラム通信2019秋号8


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