「フォーラム通信」2024年冬春号

「横浜から男女共同参画社会の実現を考える」。公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会が発行する広報誌です。2024年冬春号の特集は、「女性・スポーツ・ジェンダー」「サッカーをあきらめなくていい」。


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まだ名前の無い○○第10回私は嫌じゃないですけど世の中には、「まだ名前の無い」問題が、山のようにある。しかし、もともとそこにあった現象に、「DV」、「セクハラ」、「パワハラ」など、名前を付けたことによって、その問題の存在が明らかになり、解決へと歩み出したことは多い。この連載では、号替わりの筆者による「まだ名前の無い○○」を、見つめていきます。私の苦手な言葉のひとつは、「自分がされて嫌なことは他人にするな」だ。こんなことされたら自分は不快だなと思うなら、その状況が他人に起こったらと想像することで、他人を嫌な気分にさせないような振る舞いに努められるはずだ、努めるべし、という意図はわかる。ただ、されたら不快な気分になるか否かの基準が自分自身なのでは、謙虚というよりは傲慢な気もする。そもそもこの言葉、何を不快と思うかは大抵みんな一緒、自分も当然その「みんな」の一員、という前提からでなければ発せられるはずがない。要は、自分のことを「普通」だと思っている人が、「普通はこうでしょ」とばかりに自分の快不快の感情に基づいて道徳やマナーを設定しているわけだ。なんとも勝手な話である。だから、自分の基準を他人に押し付けず、自分が平気だと思う事柄でも他人にとっては不快な感情を引き起こしうるので、気をつけて過ごしましょう。多様性を尊重するとはそういうことでもあるのです…という話をしたいのではない。いや、これはこれで本当に大事なことであり、性の多様性についての研究者である私としては、「普通」を自認する人たちはこの原則を肝に銘じてほしいと思う。けれども、私が本当に言いたいのはその先、つまり、この原則が罠のように機能してしまう点についてなのだ。一つ目の罠。「相手が嫌がることをするな」を逆手にとって、自分にとって「耳が痛い」話を聞き入れようとしない人がいるだろう。しかし、言われると「耳が痛い」のはそもそも言われた側に何らかの落ち度があるから、という場合、「耳が痛い」話を聞くことは不快で嫌だからやめてくれ、というのでは、批判や正当な要求を拒絶しているにすぎない。たしかに、人それぞれと言いうる側面では「普通」を押し付けるのをやめ、相手が不快に思うかを考慮すべき、というのは正しい。だからといって、万人に共通の望ましさを一切放棄して何もかも人それぞれと考える必要はないし、そうすべきでもない。「自分にとって気が進まなくても不快に感じても、批判を受け入れて反省し、言動を改めるべき時がある」とみんなが考えることには意義がある。「普通」の押し付けだって、この批判と反省に基づいて減らしていけるはずだ。二つ目の罠。私自身が最近とても気になっている決まり文句がある。たとえば仕事内容に関係のないプライベートな事柄を職場で尋ねられたとか、不愉快な身体接触を迫られたといった時に、私たちはそれをやんわりと、あるいはきっぱりと断ることがある。「相手が嫌がることをするな」というルールを遵守するよう他者に求めるこんな状況で、第三者がご丁寧にもこんな風にのたまうのである。「私は嫌じゃないですけど」。ああそうだろうとも、快不快は人それぞれですから、私が不快に思うことをそう思わない人もいるでしょう。だからと言って、今この状況でそれを言う?それは何のアピールですか?「この人が不快だと思うあなたの言動を私は不快に思いません」って、私を蔑ろにしてその人に取り入るつもりですか。腹立たしいことこの上ないな。この架空のエピソードを、他人同士が通じ合っていることへのやっかみだと思って欲しくない。そもそも何も聞かれておらず要求されていないがしない第三者があえて反応しその場に「共通理解」ができることで、昔ながらの「普通」が呼び戻される。つまり「人それぞれ」を逆手にとって「普通」が再び設定されてしまうのである。「人それぞれ、だけど普通同士だとやっぱり通じ合えるよね」という地獄の到来である。プライベートを互いに開示し合う関係も悪くないし、身体接触で親密さを伝え合うことだって悪くない。そう思ってもちろんかまわない。けれど、「私は嫌じゃないけどね」は、「普通」の引力に屈して誰かと通じ合ってしまいたい私たちの怠惰さゆえ、私やあなたの「私個人としては、それもまた悪くないと思う」という気持ちを適切に伝えるにはふさわしくない表現になりうる。「私はあなたとは違う」と言いやすいのは圧倒的に「普通」の側の人間である。だからこそ、互いの置かれた立場に繊細に目を向けつつ、「あなたはそうなんだ、私はこうだな」を確かめ、楽しむための言葉が必要なのだ。そんな言葉が私たちには圧倒的に足りていないのだけれども。●もりやまのりたか1982年神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程単位取得満期退学。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻助教、早稲田大学文学学術院専任講師を経て、現在同准教授。専門は、社会学、クィア・スタディーズ。著書に『LGBTを読みとく―クィア・スタディーズ入門』(ちくま新書)、『10代から知っておきたいあなたを閉じこめる「ずるい言葉」』、『10代から知っておきたい女性を閉じこめる「ずるい言葉」』(いずれもWAVE出版)など。【今回の担当は森山至のり貴たかさんです】手作りのピクルスを常備するようになりました。冷蔵庫にすぐ食べられる野菜を使った一品があるだけで、本当に心が安定します。フォーラム通信2024冬春号8


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