003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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称する。横浜公会に集った者のなかで、ブラウン塾に入って神学の勉強をした一団を横浜バンドという。海岸教会婦人会の結成は、一九〇六年十一月のことであった。日本基督教婦人会と名付けられ、会則も作成された。会長には西川千代、副会長に岩村もと、会計に岩間たか、北村ふさが選ばれた。また当教会で女性が初めて長老に選ばれるようになったのは、一九二五年からであった。関東大震災で教会堂は焼失し一九三三年に再建された。横浜連合婦人会評議員の柳下ますが教会員である。横浜組合教会婦人会一八六九年に日本で組合教会と言われる会衆派のD・C・グリーン宣教師が来日。一八七〇年、同派が伝道の本拠地と定めた神戸で伝道を開始した。一八八六年に日本組合基督教会が組織された。横浜では、一八九三年に福富町に講義所を、翌年に日本組合横浜基督教会(以後、横浜組合教会)を設立した。関東大震災では会堂が焼失し、一九二五年に中区宮崎町に新会堂を建てた。日本基督教団紅葉坂教会と改称したのは一九四二年。婦人会は、『横浜組合教会婦人会記録』によると、講義所開設時に牧師堀貞一の妻愛子の発起により組織された。規約には「重ねて教会伝道を扶け、婦人間の親睦を相謀り、尚お、憐れなる人に慰謝を為さんとする事」とあり、東京から牧師を招いて集会を開いたり、さまざまなテーマの講習会や慰問などで活発に活動をしている。横浜連合婦人会館が教会の隣に建てられ、多くの団体が利用したが、婦人会でもバザーなどを開催している。横浜連合婦人会には三宅千代、丹波美佐尾、星野こう、水崎しげら横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる236


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