003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


>> P.235

金として恩賜財団済生会が設立され、全国で施療事業を開始した。当初、神奈川県では横浜婦人慈善会病院が委託を受けるが、病院を済生会に運営してもらうほうが良いと総会で議決し、一九一三年に資産、土地建物、付属設備、有価証券を神奈川県済生会に寄付。済生会神奈川県病院が発足し、済生会第一号病院として、施薬、救療事業を始めた。関東大震災後、臨時診療部を設置、巡回看護班を編成して被災者の救護、感染予防にあたる。若草会は、一九二七年発足の神奈川県済生会の事業後援を目的とした婦人団体で、その活動にちなんで無償の奉仕と救療済生の精神を象徴する名称として「若草」が病院名や施設に用いられている。会長は知事の妻池田民子、会員は横浜連合婦人会の会員と重なる渡辺たま、丹波美佐尾、ジェシー・メンデルソン、小島きよ、二宮わか、時田田鶴、野村美智、三宅千代ら。バザーや慈善音楽会などを開いて、その収益で植木などを病室において患者の慰めとした。海岸教会婦人会現在の横浜海岸教会のある居留地一六七番の土地を外国伝道局の土地としてJ・H・バラとS・R・ブラウンが管理し、一八六八年に小さな石造りの会堂を建てた。ここにバラやD・タムソンのもとで英学や聖書を学び祈祷会を始めていた青年たちが、一八七二年バラを仮牧師とする教会を設立した。この教会を日本基督公会といい、横浜公会とも呼ばれた。教会は、指導者のS・R・ブラウンやバラの神学思想を反映し、超教派の公同教会をめざして活動したが挫折した。一八七五年に教会堂が建設され、横浜海岸教会と改235人物・団体註


<< | < | > | >>