003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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東京府下谷区入谷町長松寺内にあり、総裁は信州善光寺大本願の大宮尼公。会長は実業家の妻高田民子。常務幹事に横浜関係者の名はないが、一九一四年に横浜出張所から浦上隆応著『仏教霊魂論』が出版されているので、活動していたとみられる。横浜連合婦人会には横浜支部として参加し、幹事は上郎やす。捜真女学校捜真女学校は、一八八六年にアメリカのバプテスト教会の宣教師ネーザン・ブラウンの妻シャーロッテが創立した。最初の生徒は、ブラウンの助手のクララ・サンズが自宅で教育してきた七人の少女たちで、山手六十七番の使っていない聖書印刷所の二階を校舎として一八八七年には英和女学校の看板を掲げた。まもなく共立女学校を出た山田千代を協力者に迎えた。一八九〇年、クララ・カンヴァースが来日して二代目校長に就任。山手三十四番に校舎を建て、九二年に捜真女学校と改称。捜真は「聖書の真理を探し求める」という意味で、一九一〇年に校舎を神奈川区中丸に移転した。同窓会が組織されたのは一九〇六年頃。一九〇九年に『同窓会報』一号を発刊し、目的を単なる友好的社交的な組織ではなく、捜真ファミリーの一員として学校を支えるとした。会員は学校の困難な時には資金集めなどで支え、活発な活動をしている。横浜連合婦人会の評議員に第四代校長の妻の高垣梅子、山田千代が名を連ねている。共立女学校一八七一年、米国婦人一致外国伝道協会(WUMS)から派遣されたM・プライン、L・ピアソン、J・クロスビーは、横浜山横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる232


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