003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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置した付属小学校は、関東大震災で他の校舎とともに焼失した。一九三〇年に神奈川県立横浜第一高等女学校と改称し、戦後の五〇年には、男女共学化に伴い神奈川県立横浜平沼高等学校と改称した。一九〇二年、第一回卒業生が第一回同窓会を開催する。関東大震災では校舎が倒壊。翌一九二四年に同窓会は真澄会と改称した。横浜連合婦人会には松下よし、山下せうらが参加した。神奈川県看護婦連合組合『神奈川県産婆銘鑑』によると、一九三七年の神奈川県連合看護婦会会長は大岡サトで、横浜連合婦人会の評議員である。横浜市産婆会婆の資格・役割が規定され、医師と産婆の業務が法的に区分された。西洋医学に基づく産婆教育も展開され、専門職としての制度も確立され、産婆組合などが結成された。大正期、西洋医学を学んだ産婆たちが活躍するようになり、社会的地位を築いた。昭和に入ると各府県の産婆組合が連合して大日本産婆会を結成し、「助産婦」と改称。『神奈川県産婆銘鑑』(一九三七年)によると、神奈川県には計十六会、千八十三人の産婆がおり、横浜市産婆会には四六二人が所属している。横浜市産婆会会長は白石トリ、副会長は大岡サトで、横浜連合婦人会には、この二人が評議員として参加している。仏教婦人救護会支部産婆と呼ばれるようになったのは江戸中期から。一八七四年発布の医制により、産『婦人社交名簿』(婦女通信社)の一九一八年調べによると、創立は〇五年。231人物・団体註


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