003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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浜から二宮わか、松岡鎮枝、野村美智が出席。学生基督教女子青年会の組織化を図る。一九一二年、本部は横浜における働く女性の状況調査を行い、翌年、横浜倶楽部創設委員として時田田鶴、二宮わか、野村美智、吉川とゑら九人が集まって横浜倶楽部を設置し、活動を始めた。一九一六年、横浜基督教女子青年会として独立が承認された。キリスト教主義に基づく青年女子の人格育成が目的。すでに教育事業は多岐にわたって行っていたが、クラブの増設、外国婦人寄宿舎と職業婦人宿舎の開設、有職婦人休憩所などを実現させた。この頃、写真婚で渡米する女性が多く、問題も多く発生したので、渡航までの女性用宿舎を設け、講習を行った。関東大震災ではほとんどの建物が倒壊焼失し、幹事や会員から死者も出た。会館の焼け跡にテントを張って仮事務所とし、罹災市民のための救援物資の配布を展開。ここから市内の婦人団体による横浜連合婦人会が結成された。櫻楓会支部日本女子大学校第一回生により、卒業前から同窓会設立が計画され、櫻楓会と名付け機関紙発行や役員も決め、一九〇三年に発会した。単なる同窓会ではなく、「卒業後も生涯にわたって自発的な活動と向上」を目指すことを目的とし、会員は家庭部、教育部、社会部の研究部のいずれかに入って研究することになった。一九〇四年には機関紙『家庭週報』も創刊され、編集人は小橋三四子と橋本(柳)八重子で、編集の全てが女性の手で行われたのは当時としては画期的だった。東京では関東大震災後すぐに震災救護部を設置し救護事業に参加した。227人物・団体註


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