003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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横浜明石家の主な事業は、海産物問屋、金融為替業務、倉庫業の三つ。福三郎は市会議員、横浜商法会議所メンバーとしても活躍し、横浜経済界の代表的人物になる一方、不動産と金融業も経営し、株式会社渡辺銀行を設立する。その経営手腕が評価され、経営に関わったのは主なものだけでも横浜鉄道、横須賀瓦斯、横浜倉庫、大日本製糖、日清紡績など十社以上に達する。「福三郎の人生は横浜の歴史」と言われるほど。たまの社会活動が始まるのは四十代になってからで、婦人共立育児会幹事に始まって日本赤十字社篤志看護婦人会神奈川県支部理事(のち、副会長)、横浜婦人慈善会理事、日露戦争が始まると横浜奨兵義会婦人部委員長、愛国婦人会神奈川県支部幹事など婦人団体の要職を次つぎと引き受け、多忙な日々になる。日露戦争中には毎日早朝から、平沼駅(現、相鉄線の平沼橋駅近くに存在)に出征兵士の見送りに行き、東京の病院に傷病兵を慰問し、「渡辺夫人の美徳遂に其名を軍人間に知られ其面貌をも記憶せらるるに至る」(『横浜貿易新報』一九〇五年一月五日)と書かれるほど。一方で横浜孤児院をキリスト教徒の角倉嵯峨から引き継いで院長になり、石井雪岑が設立した浦島保育院の副院長になり、財団法人横浜保育院を設立して理事長に就任するなど慈善事業にも力を注いだ。一九〇八年には九人の女性たちと横浜女子商業補習学校を老松町に開校して、昼間働いている女子のための夜学校を設けた。出発時の生徒はわずか四人だったが、その後生徒が増え、幾多の変遷を経て現在の中央大学付属中学校・高等学校になった。大正期に入ると、家庭製作品奨励会会長、御大典奉祝横浜婦人連合会会長に就任し、二三年には二宮わかとともに露国難民横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる222


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