003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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救済横浜婦人有志会を結成している。この会は社会主義者の山川菊栄が呼びかけて与謝野晶子や中條百合子らも参画した会で、バザーなどで集めた寄金を労農ロシアに贈った。関東大震災後も上記の多くの仕事をこなしながら横浜連合婦人会会長を務めている。こうして並べてみると、官製、民間を問わず、宗教的立場や思想信条を問わず、多くの団体のリーダーを務めていることがわかる。このように女子教育や慈善事業、婦人運動に携わりながら、たまの肉声はほとんど聞こえてこない。事業の目的や理念については、協働した人びとが語ったり、書いたりしている。母の事業を継いで学校経営にあたった三男の富三郎が「母は生来非常に健康に恵まれ、四男七女の子女を、海産物石炭商として荷主の泊り客も多く、随分多忙な中で育て上げ、店の経理方面も夜遅くまで整理し、朝は日の出と供に起きる習慣が晩年まで続き」(『横浜商業学校五十年史』)と書いているように、大を成した商店の奥帳場を預かって身についた経営の才を発揮し、関わった事業のほとんどを法人化することで経営を安定させている。また「わが身のことは切りつめても、他人を助ける」というのが信条で、仏教を深く信仰し、強い宗教的信念を持っていて、「み仏にまかす心の安らけきいかなることのありと思えど」という歌もある。日常生活はつつましく、着るものも絹物は身に着けず、質素だった。和歌をたしなみ、日本画に親しみ、茶の湯、盆景に造詣が深く、二絃琴を楽しんだという。「女子の務めは家を斉えるにあり」との信条を持っていた。夫婦仲がよく、渡辺の社会事業を支えたのは夫の財力である。福三郎は仕事ひと223人物・団体註


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