003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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を後世に伝えねば」と記録に残している。学校は倒壊し、指導者が不在だったこともあり混乱したが、何とか授業を再開する。三六年、校長を辞し帰国。ニューヨーク州のホーム・エコノミクス・カレッジでコースを修得。三九年から四〇年に同志社専門学校で教えていたが、戦争の危機が強まり四一年帰国。その頃、地元紙に日本人の精神や感情の機微をあまりに無視したことが行きづまりを招いた原因の一つであるなどと、複雑な思いを表すインタビュー記事が地元紙に掲載された。アメリカの日本研究の糸口になったとも言われる。渡辺絹子(わたなべ・きぬこ)一九〇二(明治三五)~一九九一(平成三)賛助員。渡辺福三郎とたまの三男富三郎の妻。渡辺たま(わたなべ・たま)一八五八(安政五)~一九三七(昭和一二)理事長・評議員。上州碓氷郡松井田(現、群馬県安中市)生まれ。大河原太右衛門といわの次女で、多満、多満子、玉、玉子、たま子、タマ子、珠子とも書く。家業は回漕業や質舗だったが、幕末、太右衛門は江戸日本橋で海産物商明石屋を営んでいる兄新次郎に請われて出向き、新次郎の跡取りの福三郎の後見人になり、横浜元浜町に進出した明石屋の手助けをする。たまは寺子屋で学んだのち、十五歳で新次郎の養子になり、明石家の当主になっていた従兄の渡辺福三郎と結婚したのは一八七三年。四男七女に恵まれた。221人物・団体註


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