003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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辺たまにちなんで「玉光会」として七五年の今も続いているとしている。宮本せき(みやもと・せき)賛助員。向井文子(むかい・ふみこ)評議員。ジェシー・メンデルソン一八七四(明治七)~一九六六(昭和四一)評議員。日本名は福澤せい。父は一八七二年に新橋横浜間を走った蒸気機関車の運転手で、母は信州伊那の豪農の娘。生後二年、父は鉄道建設のために行った南米で風土病にかかり亡くなる。母の郷里で育てられるが、母の再婚を機に十四歳で上京し、母の知り合いのアメリカ人の家に寄宿して、アメリカの礼儀や習慣を教え込まれた。東海道線が開通して間もない九二年、療養のため一年間を大磯で過ごしており、ここで大磯との縁ができた。九八年、メンデルソン商会社長のエドワード・メンデルソンと結婚。一九〇四年頃、大磯の西小磯東柳原に別荘を建て、横浜の本邸と往復する生活になり、作家の村井弦斎が主催する中郡盲人学校支援のチャリティーに関わる。また、二一年から四一年まで横浜基督教女子青年会の幹部委員を務めている。エドワードは、永代借地権を入手していた山手二一四番(現、横浜共立学園同窓会館の場所)に二七年、本邸を新築したが、翌年死亡。横浜外国人墓地に埋葬された。215人物・団体註


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