003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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ったので、共に横浜に転居。クリスチャンで、横浜組合教会(現、紅葉坂教会)に所属し、創立以来の役員。婦人会で活動した。関東大震災では教会の会堂も牧師館も焼失して牧師がいない時代が続き、三宅は役員として教会の再建に尽力した。宮崎町一番地に再建された教会の隣に横浜連合婦人会館が建設され、評議員として活動した。にちなむ)の一員として、一九三五年には「心の華叢書」に歌集『みなと』竹柏会のが入っている。異国の人が行き交う港町横浜の風景を切り取った作品が多い。(横浜歌人会編集・横浜市教育委員会発行『横浜の歌人たち』)「観光の人々のせて人力車ながながと行く港のまひる」『紅葉坂教会百年史』によると、孫、ひ孫「水色のきぬのもすそのかろやかさ港のまで四代にわたって教会員である。宵のとつ国少女」社会活動は教会や横浜連合婦人会にとどまらず、横浜基督教女子青年会の幹部委員も務め、神奈川幼稚園を拡張するときには発起人になるなど、行動範囲が広い。横浜基督教婦人矯風会では一九三五年から参政権副部長として女性の政治参加の実現に努力している。多才な人で、佐佐木信綱門下の歌人でもあり、新月会(信綱の第二歌集『新月』「春くるる港の町の支那少女ほそき眉してつれ立ちゆくも」晩年の一九七五年に出版した冊子『思い出は真珠の如く』があり、横浜連合婦人会の発足から連合婦人会館建設の苦労を綴り、水崎しげと丹波美佐尾が有吉市長に面会して横浜市に引き取ってもらった経過を書いている。一九四八年十月に集まって亡き二十二人の思い出を語り合い、以後、渡横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる214


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