003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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れで、牧師の次男。号は操山。東京専門学校を出て大阪朝日新聞社の記者になった。『東京日日新聞』記者を経て、一九〇八年、横浜市政顧問に招かれ、さらに二年後、横浜貿易新報社長兼主筆に就任、五十九歳で亡くなるまで二十五年間、その座にあった。並行して横浜市議、県議、民政党の衆議院議員としても活躍した。学生時代から都市問題をライフワークとしており、主筆として都市問題、自治、教育など幅広い社会問題に健筆をふるった。社会福祉、芸術振興など主催事業にも熱心で、廃娼運動も支持した。著書に『都市の研究』がある。『大阪朝日新聞』記者時代の一九〇三年四月、大阪で開かれた社会主義者大会を安部磯雄とともに司会している。この大会に社会主義者で、のち大逆事件で刑死する菅野スガが出席しており、二人は意気投合。社会主義を研究する大阪同志会を作ったものの三宅は横浜に転勤した。評論家の赤塚行雄は、菅野との交流から三宅が女性問題に深い関心を寄せ、『横浜貿易新報』に「フェミニズムという新思想を取り入れつつ、美風良俗の鼓吹につとめた」として横浜貿易新いる(「菅野スガと同志の仲報社長・三宅磐の若き日」『神奈川新聞』一九九七年五月二日)。三宅が家庭製作品奨励会や連合婦人会の会員として、新聞紙上でもたびたび紹介して、女性たちの活動を応援しているのも頷ける。三宅千代(みやけ・ちよ)一八八七(明治二〇)~一九七八(昭和五三)評議員。熊本県の生まれで、父は元松直徳。名古屋の清流女学校を卒業後の一九〇五年、大阪朝日新聞記者の三宅磐と結婚。三年後、磐が横浜貿易新報社長にな213人物・団体註


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