003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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三一年に大磯に転居。戦争が始まった頃、日本人として生きる決心をし、日本国籍に戻す。四九年頃からボランティアとしてエリザベス・サンダースホームを手伝う。ホームでの混血児たちとのふれあいが生きがいだったが、晩年は、教育方針の違いから澤田美喜にホームへの出入りを断られた。生前交流のあった獅子文六はジェシーをモデルにして小説『アンデルさんの記』を書き、小説中ではセシール・アンデルゼンとしている。出版は一九六三年で、その後に出た大磯の『大磯まち歩き事典』や「歴大磯」にはセシール・メンデルソ史の町ンと書かれている。しかし、横浜YWCA所蔵の記録やエドワードとともに眠る横浜外国人墓地の記録もジェシー・メンデルソンとなっている。毛利華子(もうり・はなこ)生没年不詳賛助員。室原富子、吉川とゑら六人が作った神奈川の女中会の発起人の一人。柳下ます(やぎした・ます)一八六六(慶応二)~不詳評議員。共立女学校の卒業制度施行前(一八八一年以前)の卒業生。横浜海岸教会で受洗しており、一八八八年の会員名簿によると、弁天通一丁目で金物店を経営する半次郎の妻で、身内と思える柳下平次郎は慈善部の執事を務めている。柳下家は明治期から横浜で鋼鉄取引商を営む資産家で、「鴨井屋」を屋号とし、平次郎と達蔵兄弟の二家があった。『現代之横濱』(一九一四年刊)には、鋼鉄商として「ます」の名があるので、店の切り盛りをしていたと思われる。家督を養子に譲り、横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる216


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