003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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学校と宣教師養成所の創始者で宣教事業に熱心だった。学ぶことに意欲的で、のちに日本からの休暇中も聖書神学校で再教育を受けている。この頃クララ・ルーミスと出会ったと思われ、クララに続いて来日し、一八九二年に名古屋の超教派の宣教団体であるクリスチャン・アライアンスの孤児院で働く。ルイーズ・ピアソンに紹介され、横浜のWUMS(共立女学校設立の母体となった超教派の女性伝道協会である米国婦人一致外国伝道協会)の活動に関心を持ち、九三年、宣教師として承認され、横浜の偕成伝道女学校でピアソンの補佐をする。地方伝道では小さなオルガンを持ち歩き歌や演奏で女姓や子どもを喜ばせ、ともに楽しんだ。一八九九年、ピアソンの死により偕成伝道女学校二代目校長に就任し、神学校のこれまでのあり方を見直し、組織を改め近代化をはかるが、伝道の実践を重んじる教育の伝統は守る。地方伝道は重要と力を入れ、各地に伝道者を送る。関東大震災時、休暇で帰米中だった。支援のためにすぐに日本に帰ろうとしたが、「なすすべがありません。そのままそこに留まってください」と言われ、日本に戻ったのは一年後。破壊された校舎、中断している授業の再建に立ち向かった。一九三七年、七十歳で帰国。その後も海外伝道の仕事を広げようと活動を続けた。「主に捧げスーザン・オーガスタ・プラットた生涯への感謝」(横浜共立学園資料)がある。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる210


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