003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


>> P.209

教育者の山鹿旗之進は兄にあたる。仙台の東奥義塾の女子部で学んでいたが廃校になり、弘前女子師範学校に転校した。卒業後の一八八四年、兄と東奥義塾以来の友人である牧師の平田平三と結婚し、翌年受洗。夫は日本で伝道しているメソジストの三派合同に力を尽くし、横浜部を担当。一九〇〇年から日本メソジスト横浜教会の牧師を兼任し、伝道に各地を回った。もとは八人の子を育てながら忙しい夫を支え、社会活動もしている。一八八九年発会の横浜婦人慈善会では副会長を、一九〇三年には横浜基督教婦人矯風会の幹事、横浜奨兵義会婦人部委員などを引き受けている。理な活動がたたり病床に臥すが横浜には病院もなく医師もおらず、十一月にやっと東京赤十字病院に入院。再起不能と言われたが、少しずつ回復した。平田牧師が一九三三年に狭心症で死去したときに関係していた役職は横浜訓盲院理事、相沢託児所理事、中村愛児園理事、神奈川廃娼期成会理事長、横浜禁酒会など教会関係者が関わる団体で、もとも共に支えていたようだ。平田平三については、田中亀之助の評伝『平田平三伝︱日本メソジスト教会発達の一断面』一九九六年)がある。スーザン・オーガスタ・プラット一八六七(慶応三)~一九五六(昭和三一)関東大震災時、蓬莱町の教会の牧師館は一瞬で崩壊し、在宅の家族は九死に一生を得た。近くの小屋に避難し、神奈川の高台にある山鹿旗之進の家に移る。もとは無評議員。ニューイングランドの裕福な家に生まれ、ボストン大学、さらにゴードン養成所で学ぶ。長老派からバプテスト教会に移るが、この教会の牧師がゴードン神209人物・団体註


<< | < | > | >>