003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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行困難になった。サムライ商会の建物は崩壊し、預っていた委託販売の美術品三万点余も燃え尽き、弁済金は莫大だった。しかし、洋三はサムライ商会の跡地を臨時共同市場に提供し、横浜市復興会では庶務委員として、夫妻で官民一体の横浜復興に務めた。その計画の一つとして訪日客のため、「グランドホテル」の後継館としてホテルニューグランドが建てられ、洋三は二代目会長となった。四五年の横浜大空襲では焼失を免れたが、連合軍のマッカーサー元帥はじめ進駐軍がニューグランドを宿舎にしたので、夫妻はホテル内でその応対にあたった。美智は、日本基督教女子青年会の創立当初からの会員で会計を担当し、二六年から四二年まで会長を、三五年から六〇年までは理事長を兼務している。活動推進には財政的裏付けが必要とホテルニューグランド内にショップを開設し、会員の相互援助と外国人女性との国際交流に発展させた。財界人からの寄付や他からの援助を仰ぐなど尽力し、YWCA会館建設のため資金管理で早くから土地の手配もして、現在の会館は一九五〇年に開館した。横浜連合婦人会では、理事として渡辺たまを補佐し、渡辺亡きあとは、横浜連合婦人会館を横浜市に委譲する面倒な手続きを担当し、婦人会館の歩みをまとめて後世に伝える役割を果たした。一九五四年に横浜文化賞、翌年神奈川文化賞を夫妻で受賞したのは珍しい。平田もと(ひらた・もと)不詳~一九四一(昭和一六)評議員。横浜家庭製作品奨励会の中心人物。青森県津軽出身で、旧姓山鹿。牧師で横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる208


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