003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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柱や欄干などを真っ赤に塗った奇抜な店構えで外国人客に評判になり、わずか半年で一万点近くの品目を売り尽くす盛況ぶりだった。洋三は美智の聡明さと英語力に、美智は洋三の気概と独創性にひかれての結婚で、一男四女を設けた。外国人からガイドを頼まれれば同伴するし、商用での外出も多く、不在がちな洋三にかわって美智が店のすべてを取り仕切った。そのてきぱきとした接客ぶりに、名指しで来店する者も多かったという。市民も公的な使命を自覚しなくてはと、店内に「小さな私設外交室」として「鶴の間」を設けた。洋三の着想で、壁や天井に鶴の絵を描いた中二階の部屋で、横浜港を出入りする著名人が訪れ、社交の場としても活用された。明治の女性としては珍しく、二度も海外旅行をしている。最初は一九〇六年で、約三か月、香港、上海、北京などを周った。このときは体調を崩し予定を早めて帰国するが、買い付けた美術品は好評だった。また、〇八年に参加した「世界一周会」の旅行は、朝日新聞社企画で北半球を一周する九六日間の団体旅行。一般人同士の交流と趣味としての旅行目的で企画されたが、美智には「サムライ商会」の経営の参考にする目的もあった。旅行中も和服で通し、流暢な英語のスピーチが評判を呼び、東洋や日本の魅力を伝えた。子どもを残しての旅行で躊躇もしたが、母が後押ししてくれた。帰国後『ある明治女性の世界一周日記』として体験記を出版し、名文が評判になった。関東大震災では、家族や従業員は無事だったが、美智は足に負傷し、その後足と腰椎の痛みに耐える生活となり、晩年には歩207人物・団体註


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