003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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年会の幹部委員、横浜奨兵義会婦人部委員、露国難民救済横浜婦人有志会の発起人、御大典奉祝横浜婦人連合会副会長、神奈川県社会事業協会理事、横浜市方面委員などを務めた。現在の神奈川区に長く住み、五男六女がある。「明日の日はないかも知れぬ」がモットーで、「雷婆さん」、「女彦左」と呼ばれるほど、口やかましく役人にも説教し煙たがられたが、横浜の社会事業に大きな足跡を残した。野村かの(のむら・かの)一八九六(明治二九)~不詳賛助員。二代目佐伯藤之助、山下せうの妹で、横浜高等女学校出身。東京の野村義三の妻。野村美智(のむら・みち)一八七五(明治八)~一九六〇(昭和三五)理事。足柄下郡芦之湯村(箱根町)の紀伊国屋旅館を経営する川辺儀三郎・ひろの長女。幼名ミチ。美智子とも書く。六歳で父を亡くしたが、小田原小学校を卒業。英語に堪能な国際人に育てたいという母の教育方針から東京麻布の東洋英和女学校に進学。在学中に鳥居坂教会で受洗。卒業後、一時は教職に就くが、箱根に戻り、母から完璧な主婦になるよう家事一般、使用人の扱いまで厳しく教え込まれた。野村洋三との結婚は一八九八年。洋三は通訳として二度渡米して帰国後、横浜本町で古美術を扱う「サムライ商会」を開業。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる206


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