003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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三十一歳のとき、横浜美普教会の牧師で、のちに貿易会社の支配人になる時田大一と結婚し、夫の伝道を助ける。横浜市中区唐沢に住み、二男二女をもうけた。関東大震災後の横浜連合婦人会館建設の募金運動では、募金、会員募集と「募」という字ほど嫌いなものはないが快諾してくださる方に出会ったときのうれしさを語り募金集めに奔走している。一九二九年五月に海野幸徳が『横浜貿易新報』紙上で横浜連合婦人会に注文を付けたのに対して、二回にわたって「連合婦人会の社会活動」で反論している。連合婦人会のなかでは数少ない職業婦人で理論家であった。父の酒乱から禁酒運動に熱心で、日本基督教婦人矯風会の本部理事を、一九〇〇年には横浜支部の書記、支部長を経て、三〇年からは相駿部会長を引き受けた。三二年に横浜で開かれた矯風会の全国大会では、支部長として力を振るった。会場に横浜連合婦人会館を使用したところ、音響の具合が悪く苦情が出た。四一年に札幌に転居し、あとを水崎しげと城戸順に託したが、太平洋戦争が始まりもはや活動はできなくなっていた。その他の社会事業にも熱心で、横浜基督教女子青年会の幹部委員、愛国婦人会地方幹事も務めている。長男の信夫は、「母は和裁をしながら、アラビアン・ナイトの物語りを良く話してくれたものである。母の精力的な活動を忘れることができない。我々の少年時代に、漢文や、和歌や、英語の会話などをよく教えてくれた」(『90年史余話』)、孫の牧之瀬靖子は、「祖母はシャンと着物を着て毎朝人力車でご出勤、祖父は歩いて会社に行っていたので、五歳の子どもの目にはおばあさんはおじいさんより偉い」『婦人之友』横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる202


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