003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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で受洗。夫妻で教会の役員を務めている。関東大震災で当時伊勢町にあった組合教会は会堂、牧師館が焼失し、会員の多くが罹災した。一八九四年に生まれた婦人会は、購入していた宮崎町の土地に新会堂を建てるため、活発な活動で教会を支えている。横浜連合婦人会館は、移転した教会の隣に建てられた。一九二三年から五十年間、横浜基督教女子青年会の会員で幹部委員も務め、横浜基督教婦人矯風会では廃娼運動に力を入れ、支部会計を担う。戦後は支部長を務めた。絹織物輸出商の夫の妻として八人の子を育て、家で人をもてなすことも多かった。夫は浮世絵の海外流失を防ぐため蒐集を始めて六千余点に及び、「丹波浮世絵コレクション」として有名で、神奈川県立歴史博物館に所蔵されている。時田田鶴(ときた・たづ)一八六七(慶応三)~一九五三(昭和二八)評議員。現在の広島県三原市に生まれた。父は旧三原藩の典医の杉江春二。小学校を出ると男装して漢学塾に通うほどの勉強好きで、大阪の梅花女学校に学ぶ。教師をしたのち、一八九一年から三年間、米国のウェズレー大学に留学する。母校の梅花女学校教師を経て、九七年に横浜英和女学校の教師になり、九九年の横浜高等女学校設立時から二十年間勤め、横浜英和女学校に戻って三三年まで教職にあった。英語を習った中尾美喜代は、進歩的で若々しい時田を生徒たちが「モダンばあちゃん」と呼んだと書いている(『90年史余話』)。201人物・団体註


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