003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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が、中尾文雄と結婚し、温かいクリスチャンホームを築いた。中條廣子(なかじょう・ひろこ)生没年不詳評議員。捜真女学校九十年史』一九七七年)によると、一九二〇年に捜真女学校教師に就任し、三〇年に勤続十年で表彰されている。同時に表彰されたのは、美術教師の溝上遊亀(のち、小倉)。さらに四二年から四五年まで共立女学校の数学教師を務めるが、疎開のため退職している。錦戸秀子(にしきど・ひでこ)評議員。二〇〇三年十月)と映っていたと回想している。中尾美喜代(なかお・みきよ)不詳~一九八二(昭和五七)評議員。一九一六年に横浜英和女学校に入学、二一年に卒業し、東京女子専門学校の家庭科に進学。二八年から母校で裁縫と聖書を教え、法人評議員も務めた。基督教女子青年会は全校活動で、顧問として生徒とともに奉仕活動をした。また、母姉会の創立委員として講演会や講習会を主催、戦後はPTA副会長になった。同窓会の丘光会の役員を長く務め、一九六九年から会長。七〇年刊行の母校創立九十周年記念出版物編集委員会編集『90年史余話』の編集委員長。三六年には、横浜基督教婦人矯風会の法律部副部長。関東大震災で父やきょうだいを失った203人物・団体註


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