003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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に慕われていたことがわかる。一方で社会事業にも熱心にかかわった。田沼なる子の名前が社会事業関係の記録に最初に出てくるのは一八九四年。三年前、貧しい人たちを救済するために設立された婦人共立育児会に一円を寄付したことが同会の報告書に出てくる。続いて一九〇三年創立の横浜孤児院の設立に尽力し、浦島保育院理事、横浜保育院理事など、渡辺たまの社会事業に協力している。横浜女子商業補習学校設立者の一人でもあって、女子教育に思い入れがあったのだろう。日清戦争の際、横浜恤兵会で軍事援護活動をしたのを手始めに、日露戦争時には愛国婦人会神奈川県支部評議員と日赤篤志看護婦人会県支部評議員、また、横浜独自の奨兵義会婦人部の委員になった。傷病兵を見舞ったり、出征兵士の留守家族を慰問するなど積極的に活動をした。日清戦争のときは兵隊のために靴下や手甲を作って送ったりする程度だったが、日露戦争時には女性たちが外に出て出征軍人の「家族慰問などに奔走する様になりましたのは誠に結構な事でございます」と『横浜貿易新報』のインタビューに答えている(一九〇四年九月一日)。その後も渡辺たまを中心にした家庭製作品奨励会、旗の日会、横浜連合婦人会の活動に参加した。一九二七年十二月に六九歳で亡くなった折には学校葬が行われ、知事、市長をはじめ、女性団体の代表、在校生、卒業生ら三千人が出席して盛大だった。翌年には冊子『田沼なる子刀自小伝』が刊行され、多方面に活躍したなる子の足跡を偲ぶ言葉が掲載されている。若草会の会員でもあった。199人物・団体註


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