003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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負って立つ健全な青少年を育成する原動力は、ガールスカウト活動にあるという強い信念によった。五八年横浜文化賞、六〇年神奈川文化賞を受賞している。田沼たけ(たぬま・たけ)生没年不詳評議員。実業家で、私立横浜高等女学校を設立した田沼太右衛門となる子の二女。渡辺たまの次女増子の友人。のちに横浜高等女学校校長になる卯之吉と結婚、学校では茶道を教授。二男二女がある。田沼なる子(たぬま・なるこ)一八五八(安政五)~一九二七(昭和二)なる、ナルとも書く。剣道、槍術で幕府に仕えた中山勘之丞の娘で江戸麻布狸穴で生まれた。一七歳で田沼太右衛門と結婚した。夫は、米穀、地所、山林など多方面に事業を拡張して横浜の実業家として財をなし、横浜共同電灯会社、横浜商業会議所、武相水力電気会社、横浜米穀取引所などの要職に就いた。市会議員、県会議員を経て県会議長職にあった一八九九年、中区日之出町に私立横浜女学校(現、横浜学園)を創立した。一男六女のうち、男児と四女は夭折。校内に住まいがあり、生徒たちにとってなる子は母のような存在だった。『横浜学園創立八十年記念誌』掲載の卒業生榊好子の思い出には、「校主兼校長の田沼太右衛門先生は、常に紋付袴を着用され、白髪の神々しい威厳がある一面、やさしいおじい様であり、又いつも楚々としてお側に控え、柔和に私共をお迎えくださるなる子夫人は、甘えたいおばあ様であった」とあり、家庭的な雰囲気を大切にした学園で、生徒たち横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる198


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