003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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父の遺業を継いだ。められている。それから二十年間は校長として、第一線を退いたのちの二十年間は名誉校長として、良妻賢母主義を教育方針に掲げ、国に尽くす母の育成に努めた。卒業生の藤村聡子は、「校風は質実剛健にして質素、婦道とか、婦徳という言葉を事ある毎に聞かされましたから、少女達には堅苦しさを感じました。大変立派な講堂の演壇近くに『貞操第一』と書かれた大きな額が掛かっていました」(横浜学園『ゆかりの白梅』)と回想している。短歌を小原日出子、与謝野鉄幹・晶子夫妻、山下陸奥に学んだ歌人でもあり、歌集『梅香集』、『高砂』がある。「つつましき心もたまし子等よ子等国守る人の母となる身は」「ふりつもる雪にも折れでいと柳のやさしくつよき心持たなむ」などに国の母を養成する強い思いがこ一九三三年頃からは作家の中島敦、英語教育で有名な岩田一男、歌手の渡辺はま子らを教師に迎えて、学園に新風を吹き込んだ。のちに俳優になる原節子も学んでいる。四五年五月二九日、横浜大空襲で校舎はまたもや灰燼と帰す。すでに七〇歳を越えていた志んだが、移転先を求めて市内を歩きまわり、磯子区岡村町の現在地を探しあてて移転した。移転先では、率先して土運びをし、わらじの跡が足に残るほどの労働も厭わなかった。元町の旧校地には現在元町幼稚園がある。このようなきびしい学校経営のかたわら、社会事業にも労を惜しまず、横浜連合婦人会評議員をはじめ、晩年には、妹のふくとともに県下に初めてガールスカウトを導入し、事業を拡大した。戦後の日本を背197人物・団体註


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