003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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も設立した。母はなる子で一男六女の長女として横浜尾上町で生まれた。三省学校に学び、横浜小学校高等科卒業後は家庭教師に学んだ。市会議員と県会の議員に当選し政治家でもあった太右衛門が、最も力を入れたのが女子教育だった。一八九九年に県議会に公立女学校の設立を建議したが否決されたので同年一月、同志とともに中区日之出町に私立横浜女学校(現、横浜学園中学校・高等学校)を設立した。高等女学校令による県立高等女学校の創立より一年早い。一回生は一〇七人で、目的は女子に裁縫やその他女子の技芸と処世上必要な学問を教えて、もっぱら風儀の矯正に力を入れることにあった。そうして、新時代にふさわしい気品と教養を兼ねた女性を養成するのが信念だった。県会議員として副議長になって多忙な太右衛門は初代校長を同志の中村正義に、二代目を伊藤麻吉に任せたが、太右衛門の校長職を望む声が多く、三代目校長になった。一九〇五年、念願であった私立横浜女学校が高等女学校の認可を得た。同時に技芸科として私立大成女学校も併立した。一九〇六年には、元街小学校が移転したあとの元町に校舎を移転した。現在の元町商店街から旧外国人居留地へ上る汐汲坂の真ん中辺に校舎があり、通称「元町女学校」と言われ、紫紺の校服に紫の袴だったことから「むらさき学校」とも呼ばれた。長男が早世したため、志んは角田勝之助を養子に迎え、二十三歳で父の補佐役になった。関東大震災で元町の校舎が全焼し、父とともに再建資金の調達にかけまわった。三二年、太右衛門死去。実業界にいた勝之助も理事長として学校経営にあたるが、女の学校だからと志んが校長になって、横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる196


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