003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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に高い水準と美しさで評判を呼び、海外にも支店を出すまでになる。近隣や夫の出身地岡山県津山でレース編みの講習を行い、女たちの収入に結びつけた。大正天皇の即位式の際、皇后に献上したレースの扇は津山の娘たちが三年かけて完成させたもので、レプリカが東京家政大学博物館に保存されている。姪の吉田静代が地蔵坂の店に同居していたことがあり、『ひとつの流れ』(一九七七年)に日露戦争前後の居留地と店の様子を活写している。高級レースを扱いながら、店主の高木は、「ひっつめの束髪に地味な和服で、店と仕事場と外廻りに飛び廻っていました」と。一六年に夫が没後、事業から身を引き、衣生活改善に力を入れる。女性用の「安全下穿き」や割烹着の簡易裁断法を考案し、『ドレッスメーキング』を出版。洋服自製のための講習会などを開き、シンガーミシンの日本支社教育部長にもなった。『婦人新報』、『婦人倶楽部』などの女性誌には下着や子供服の作りやすい方法を解説付きで紹介する記事を載せている。家庭製作品奨励会は、高木とジェシー・メンデルソンが提案して始まった。生涯編み棒を手放さず、質実さと奉仕の精神を貫いた。横浜基督教婦人矯風会や横浜基督教女子青年会の初期からの会員でもあった。高木の仕事については、長女の高木富子が著わした『想い出すままあのことこの事』(一九九三年)に詳しい。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる194滝よし子(たき・よしこ)評議員。田澤さと(たざわ・さと)一八五八(安政五)~不詳


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