003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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佐藤やす(さとう・やす)一八八二(明治一五)~不詳教育事業に従事し、女学生の向上発展を気にかけていた(『横浜近代史辞典』)。評議員。鎌倉郡戸塚町(現、横浜市)生まれで、旧姓は内田。一八九五年、戸塚尋常高等小学校を卒業し、一九〇二年十一月、東京裁縫女学校普通科卒業。〇五年より〇九年まで神奈川県女子師範学校の教師を務めた。一九一四年に開校した横浜実科女学校(現、神奈川学園)創立者の佐藤善次郎と結婚。夫が校長を務める同校の裁縫教師になった。住まいは同校内。善次郎は、神奈川県初の私立小学校として一九二二年に精華小学校も創立した教育者。連合婦人会では寄付集めに努力し、借金返済のための事業、バザーなどでは手弁当で純益をあげる工夫をし、返済が終ったときは涙が出るほど嬉しかったとふり返っている。二男四女があり、常に夫を扶けて白石とり(しらいし・とり)一八七八(明治一一)~不詳評議員。福島県東白川郡笹原村生まれで、白石吉左衛門の三女。トリとも書く。一九〇〇年、日本産婆学校に入り、第一回卒業生。産婆免許状を受け、〇四年、東京市麹町の長興胃腸病院で看護婦免許を取得、翌年横浜に来て看護婦となる。〇八年、神奈川県産婆協会の幹事となり、横浜産婆組合上席評議員で会計を担当。〇五年十一月、愛国看護婦会を創立し、〇九年に不老町で開業。一六年に野毛四丁目に家を新築して業務を拡張し、所属する看護婦九十三人という(『横浜近代史辞典』)。三三年に県より表彰された。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる192


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