003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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一九一五年、横浜孤児院の理事として私財を投じた。横浜孤児院はキリスト者の本郷定次郎が暁星園として始めた事業だが、本郷の死後、知事の妻周布貞子や渡辺たまらが理事になり、法人化して、〇八年に渡辺が理事長になった。この頃から院内に皇大神宮を祭り、横浜市内六三カ寺連合仏教各宗同盟会に援助を求めて、檀信徒一千四人が加入した。また一九一五年には横浜念仏講有志から寄せられた浄財金を元に「仏徳基金」をつくったという記録があるので、上郎の寄付もこのときのものと思われる。二二年には神奈川県社会事業協会の理事となり、二七年には浦島保育院の院長になった。浦島保育院は、一九二三年に久保山円覚寺住職の石井雪岑が、渡辺たまの後援を受けて浦島丘の旧内田造船所の寄宿舎を買収して保育所に改修中、大震災で焼失してしまった。震災後、石井はバラックを改造して保育所を開設したが、二七年に死去。そこで上郎やすが事業を継承して院長になった。『神奈川県社会事業概要』(一九三一年版)によると、収容人員は一二〇人、保母七人、保育料は一日三銭である。横浜連合婦人会では、副理事長として理事長の渡辺たまとともに労を惜しまず、会の求心力を高めた。大日本連合婦人会の進出にあたって、横浜連合婦人会を横浜市に移管、横浜市連合婦人会に改称するためのさまざまな手続きを、高齢の渡辺たまに代わって行っている。教化総動員運動が始まった二九年には県庁主催の講演会に出席している。二六年には霊和会を創立して会長になった。上郎は、わが国の国民道徳の基調は祖先崇拝と家族制度の結合から生まれたもので、その中心思想は忠孝であり、忠孝に189人物・団体註


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