003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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留守家族の定期的慰問は月二回だが、通りがかりには必ず声をかけるようにしていると話している(『横浜貿易新報』一九〇四年九月六日)。横浜家庭製作品奨励会会員でもある。野毛町三丁目に居住。黒田あい(くろだ・あい)評議員。上郎やす(こうろう・やす)一八七四(明治七)~一九四一(昭和一六)副理事長・評議員。社会福祉事業家。生まれは横浜で、上郎幸八と嘉代の長女。父は大地主で、資産家。貸金業や不動産開発などで財をなした、横浜でも屈指の成功横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる188者である。家督を継いだ兄の新二も貴族院議員多額納税者の互選資格を持ち、県会議員を務めた。一八九三年、やすは豪農の次男で帝国大学を卒業した吉田清助を養子に迎えたが、〇五年に分家した。清助は、一一年から二四年まで県会議員に三期当選し、議長を務め、二七年には貴族院議員になった。その間、横浜信託会社社長でもあった。子どもは娘三人、息子二人。やすは熱心な仏教徒で宗派は真言宗。父や夫の豊富な財力を惜しみなく社会事業に注いだところは、渡辺たまと共通し、二人三脚で進めた事業も多い。その手始めは、日露戦争時に渡辺たまを委員長に結成された横浜奨兵義会婦人部の委員として、一家の働き手が出征して困窮している家族を訪ねて慰問するなど、横浜における銃後女性運動のさきがけとなった。


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