003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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け、宣教師の助手を務める。同女学校は一九〇七年に共立女子神学校と改称。さまざまな目的で異なる年齢の人が入学してきた。校内に住み、寄宿舎の舎監をしながら授業も行った。〇八年から二年間ニューヨークの神学校に学び、帰国後は伝道部長、寄宿舎の責任者を務め、横浜十全病院の看護婦たちのバイブルクラスなど学外の活動も行う。伝道で力を尽くしたのは都筑郡の農村地帯で川和の伝道所の開設には苦労した。四一年の日本基督教団成立後、神学校の合同が進み、四三年、日本女子神学校に合流する。その手続きに奔走した。戦後は、通訳や英語を教えることで生計をたてた(鈴木正和「偕成伝道女学校、共立女子神学校、そしてバイブルウーマン」『共立研究』二〇〇一年)。二宮わかを敬い、その活動も支えた。日本基督教婦人矯風会の本部委員と横浜支部役員、横浜基督教女子青年会幹部委員、中村愛児園や相沢託児所理事など。指路教会の長老でもあった。國井綾(くにい・あや)生没年不詳評議員。一九二八年三月、札幌日本基督教会から指路教会に転入会し、九月から教会長老を務めた。三四年に結婚し、転居した。横浜基督教女子青年会では二八年から三二年まで総幹事を務めた。栗原いと(くりはら・いと)生没年不詳薬種商栗原清八郎の妻。横浜婦人慈善会会員で一九〇六年からは理事。日露戦争中には横浜奨兵義会婦人部委員として熱心に活動している。受け持ち地区の出征兵士の187人物・団体註


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