003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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三一年からは全国小学校連合女教員会の連絡委員を務めており、機関誌の『教育女性』(一九三二年六月)の「女教員会だより」に、三一年、三二年の横浜市女教員会の活動を詳細に報告している。三六年には幹事になっており、副会長の石川ふさとともに全国組織を中心で支えている。菊地とみ(きくち・とみ)一八八九(明治二二)~一九七五(昭和五〇)評議員。一九〇七年に朝鮮平城メソジスト教会で受洗、二四年に仁川教会から蓬莱町教会(現、横浜上原教会)に転入会している。以後、『横浜上原教会百年誌』によると、幹事、婦人会の会長などを務め、自宅を開放して祈祷会を開いている。一九三六年には横浜基督教婦人矯風会の風俗部婦人部長。葬儀は横浜訓盲院で行われた。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる186城戸順(きど・じゅん)一八七八(明治一一)~一九四九(昭和二四)評議員。東京品川で生まれ、生後すぐに城戸家の養女となる。一八八八年頃、養父が病死し、神奈川県戸塚の刺繍工場に年季奉公をしていたが、火事で全焼。九一年から横浜の二宮安次、わか夫妻の家に家事見習として住み込んだ。わかは城戸が勉強したい希望を持っているのを知り、母校の共立女学校に入学させた。寄宿舎に入ったが、休暇時には二宮家に帰り、ともに教会に通うなど、生涯家族のように付き合う。卒業した九九年から、横浜山手二一二番の共立女学校と同じ敷地内にある偕成伝道女学校のスーザン・プラット校長を助


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