003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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る山本容代が評伝『意義ある人世に生きん大岡サトの生涯』私︱看護婦会を率いて家版、二〇〇三年)を書いている。岡野まさ(おかの・まさ)一八六七(慶応三)~不詳理事。神奈川県出身で、旧姓は石渡。夫の岡野欣之助は保土ケ谷の旧家の出で、土地開発者として有名で、住所は橘樹郡保土ケ谷町帷子。常盤台の自己所有山林を開発して二六〇〇坪の公園にしたり、保土ケ谷から星川町にまたがる高台一帯を整備して桜の名所にした。二男二女がある。一九〇五年に日本赤十字社篤志看護婦人会横浜分会会員は二九五人おり、まさは幹事。〇六年には横浜婦人慈善会理事も務めている。片山隆子(かたやま・たかこ)賛助員。軽部はな(かるべ・はな)生没年不詳評議員。横浜小学校、のち本町小学校の教員。一九二〇年に発足した横浜市女教員懇談会の幹事を務め、二九年に横浜市女教員会と改称後は西前小の桜井キンとともに副会長になった(会長は横浜市教育課長の水島藤吉)。二一年一月には一週間、横浜市の加藤視学が引率して石川ふさら十人の女教員が、京都、名古屋など各都市の教育事情を視察する旅をしており、軽部もその一人で、市に嘱望されていることがわかる。第二回全国小学校女教員大会(一九二一年)以降、市の女教員会の代表としてほぼ毎年出席し、帰って女教員懇談会で報告している。185人物・団体註


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