003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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して二六年から四二年まで母校の英語科主任を務めた。横浜英和学院の法人評議員でもあった。横浜本牧教会所属のクリスチャンで、横浜基督教婦人矯風会では一九三六年度の教育部長。横浜基督教女子青年会では四〇年から四七年まで幹部委員。大岡さと(おおおか・さと)一八八八(明治二一)~一九六八(昭和四三)評議員。サトとも書く。鎌倉郡阿久和村(現、横浜市瀬谷区)生まれで、二男五女の五女。生家は豪農で、一八九四年に「大たいこう剛館」の屋号で製糸業を開始したが、翌年父が死去。長女に婿を取り跡を継がせたが、その後経済的に行き詰まり、大剛館はなくなる。岡津領家(現、泉区岡津町)に住む従兄の萩原と結婚し、一女が生まれたがまもなく亡くなり、離婚した。一九一二年に横浜産婆学校を卒業し、鎌倉郡常磐の得田病院、続いて鎌倉養生院(現、清川病院)に勤務。大正時代に入ると、西洋医学を学んだ産婆たちが活躍するようになり、大岡も一八年四月に野毛町に看護婦会「同袍産婆看護婦会」を開き、会が大きくなってから御所山町に移転した。昭和になると各府県の産婆組合が集まり、大日本産婆会を結成した。大岡は、四二年に横浜看護婦学校を設立したが、四四年に横浜医師会に施設ごと譲渡した。戦後の四六年、西区岡野町に育生会横浜病院を設立。四八年、日本産婆会は日本産婆看護婦保健婦協会(のちの日本看護婦協会)に吸収され解散した。育成会横浜病院理事兼付属産院院長を務めるなどしたが、生活には困窮していたようだ。大変な酒飲みであったともいう。大岡の姉の孫にあた横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる184


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