003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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金集めが苦労だった。稲垣は聖経女学校内に住み、午前は学校で教え、午後は伝道に出かけ、帰ってから患者を見舞う生活を送る。家庭製作品奨励会の会員でもあり、震災直後には被災者の救援に奮闘し、横浜連合婦人会の発会につなげた。婦人慈善会病院は一九一三年に神奈川県済生会に委譲するが、稲垣は最後まで病院の整理、譲渡のための手続きなどを行う。慈善会の基本金として残してあった一万円は、のちに横浜連合婦人会に寄付され、婦人会館の建設費の一部に当てられた。の奉仕生活に感謝している。時田田鶴は「弁の人、信仰の人、而しかも最忠実なる実行の人であった」と言い、渡辺たまは、資金難で慈善会病院の維持に困った稲垣が、渡辺に助力を頼んできた経緯などを述べ、稲垣の献身的な働きに心からの敬意を表している。稲荷たみゑ(いなり・たみえ)賛助員。宇治富美(うじ・ふみ)不詳~一九七五(昭和五〇)横浜奨兵義会婦人部では第五区を担当、評議員。一九〇九年に横浜英和女学校普教会婦人会の指導や横浜訓盲院の理事などの事業にも貢献し、晩年は中村町の娘の家で過ごした。自らはいっさい語らなかったが、二九年、森和平編で冊子『露香稲垣寿恵子小伝』が刊行され、多くの人が稲垣通科、五年後、高等科(英文科)を卒業。横浜市立日枝高等小学校教師を経て一七年からは英和女学校で三年間、聖書を教えた。東京の訓盲院の活動を手伝うなどしたのち、アメリカのシカゴ大学を卒業。帰国183人物・団体註


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