003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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れた。二七年に石川小学校校長を会長に石川女子青年団が結成されると、ふさは副会長として女子青年の指導に励んでいる。二八年には第一回汎太平洋会議に女教員会の代表としてハワイに行き、教育状況視察を名目に米国西海岸まで足を延ばしている。帰国後、横浜連合婦人会で報告会を開いた。弁舌が立ち、筆も達者で、女教員会の機関誌『小学校女教員』(のち、かがやき』、『教育女性』)には一九二五年から四三年までに二百十余本の原稿を執筆している。教育行脚」と称して各地の女教員会で講演した報告が多く、文字通り東奔西走して全国の女教員たちを指導している。各大会前後についての報告、啓蒙的な文章、日本の動向と教育についての時事的なもの、女性史、教育実践、回顧など多岐にわたっている。日中戦争頃からは日本精神や聖戦・非常時などを強調し、一貫して国策を推進している。『横浜連合婦人会館史』の回顧録に寄稿している「史に寄す」は、連合婦人会の来し方、集った人びとを歌に寄せて綴っている。語るように筆先から短歌がほとばしり出る歌詠みでもあった。四一年には石川ふさ先生教壇五十年記念祝賀会が催され、同会が『石川ふさ先生と女教員会二十年史』を発行している。翌年には『女教員読本』を出版し、戦時下において「我等女教員如何に生くべきか」の諸問題を提起しており、帝国に仕える女教員として生きた石川の体験と思想が語られている。戦争の敗色濃い四四年の暮に逝った。石川雪(いしかわ・ゆき)不詳~一九四二(昭和一七)横浜家庭製作品奨励会会員。ユキ、ゆき横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる180


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