003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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た。一八九八年、横浜市立吉田小学校、九年後には石川小学校に転任し、一九三〇年まで務めた。学区は低所得者の多い地域で、石川は恵まれない児童に配慮する教師で、家庭訪問に力を入れた。関東大震災の折には「ご真影」を守って火の中を逃げるという体験もしている。この間、内縁だが、真言宗の僧籍にある渡辺幸次(弘明寺住職)と結婚し一児を得ている。石川ふさのもう一つの活躍の舞台は全国連合女教員会で、長く副会長を務め、女教員会の生みの親であり、育ての親であると言われている。一九一〇年代、小学校の女教員数が全体の約三分の一を占めるようになった。産前産後休暇や夫のある教員の問題を討議するために、帝国教育会主催で第一回全国小学校女教員会議が開かれたのは一九一七年。女教員の待遇改善などを話しあう機関の設置をはかったが、関東大震災のため遅れて、二四年に全国小学校連合女教員会が創設された。会長は帝国教育会会長(男性)で副会長二人が女性。石川は創立幹事になり、三〇年には副会長になった。翌年には公立小学校の教員を退職し、比較的自由のきく私立三留高等小学校や私立明倫高等女学校の教師をしながら女教員会の活動に主力を注いだ。一九二七年の連合女教員会の加盟団体は七十五、会員総数は一万二千人弱で、同年の女教員総数七万人の十七%弱にあたる。全国組織に加盟している横浜市女教員懇談会は一九二〇年に発足しており、ここでも副会長を務めている。二七年には小学校を卒業した女子青年を対象に大日本連合女子青年団が組織された。他地域では大正時代から学校単位の組織化が進んでいたが、横浜市内の統合は遅179人物・団体註


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