003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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務めた。その後、衆議院議員になり、愛媛、長崎、新潟県の知事を歴任した。政友会系の官僚で、原敬と親しかったと伝えられる。この間、成田火災保険会社社長も務めている。一九一四年、第七代横浜市長に就任し、四年間在任。その後は京都市長に転任した。市長在任中の一五年九月九日、御大典奉祝横浜婦人連合会(会長、渡辺たま)の役員会が市役所で開かれた。同会の趣旨に賛成した安藤が「婦人の運動として最も適当で、極めて麗しきもの」(『横浜貿易新報』一九一五年九月一〇日)と挨拶し、励ましている。同会は「旗の日会」とも呼ばれ、御大典を祝う小国旗販売の事業を展開して成果を挙げた。妻の幾久子が会員として働いている。石川廣子(いしかわ・ひろこ)評議員。石川ふさ(いしかわ・ふさ)一八七七(明治一〇)~一九四四(昭和一九)評議員。静岡県那賀郡仁科村(現、西伊豆町)生まれ。父は小学校教師で儒者の石川成仁、母は常子。十一歳のとき両親が離婚し、父親に引き取られた。私立文華学校に学び、父の家学と水戸学を身につけ、漢学の素養に富み、類いまれな皇国史観の持ち主である。少女時代は自由民権運動家の景山英子に憧れている。十七歳で教員検定試験に合格し、静岡県内の小学校を振り出しに教師生活を始め横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる178


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