003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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嶋田:私は、やはり横浜の街の歴史が、東京の婦人団体との大きな違いを生んだのではないかな、と。横浜って上に皇族や貴族がいないでしょう。さらに開港以来、横浜は「武士を入れない」街だった。関内、つまり“関門の内側”なんていってね。明治前期の横浜の人口統計をみても、武士の割合がとても低い。こんな街は他にはないんです。そんな新しい街での、女性の活動だったわけです。私は、この横浜の街が、民間で初めて婦人会館をつくるような、そういう活動を生んだのだと思います。何もないところに、色々なところから寄り集まってきて、地盤とか代々持っている力がないわけだから、商人たちもネットワークを組む。横浜の人たちは、自分たちの力が弱いことを知っていて、ネットワークを組むことの大切さを知っていたわけです。私もNPOを主宰していますけど、今でも横浜でネットワークを組めない団体は弱いだろうなと思う。※江戸幕府は、外国人居住地域に日本人、とくに攘夷派の武士を入れないよう、吉田橋などに関所を設けて人の出入りを監視した。外国人とのトラブルを防ぐことが目的。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる158尹:ネットワークを組むために拠点が欲しかったというのはよくわかります。現代でもインターネットなどでつながれても、最終的に「場所」があることが、やっぱり強いと思います。間借りじゃなくて、自分たちが自由に使える場があるのが強い、というのがわかっていたのかな。森:横浜の街を「武士が少なかった」という視点で見たことがなかったので新鮮でした(笑)。今のお話を聞いて思い出したのですが、3年前にイスラエルに行ったんです。


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