003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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横浜の女性たちは、すでに明治中期に女性のみで根岸に「横浜婦人慈善会病院(稲垣寿恵子会長)」を落成させ、経営した腕前の持ち主だった。済生会神奈川県病院は後に、この資産を継承した病院である。ネットワークを組むのも初めてではなかった。大震災直後、全国から寄せられた食料品や衣料品の配給に始まった活動は、職業紹介、練乳の配給、私立平沼・隣徳小学校の給食実施と継続的なものになっていく。その中で組織的な活動の場が希求され、独自の会館建設の動きとなったのである。一部の女性の独占するようなクラブではなく、「一般婦人に開放して各自に善用に任せたい」と横浜貿易新報に書かれている。会館建設費もなるべく多くの人が出しやすいように小口で一口十銭の募金を募った。建設費と土地買収費合わせて五五、四八三円が集められた(借入一七、四〇一円含む)。こうして一九二七(昭和二)年、紅葉坂の途中、宮崎町に「横浜連合婦人会館」が竣工。すべて民間の女性の手で成し遂げられた会館であった(現在は跡地に宮崎地域ケアプラザが建つ)。「横浜貿易新報」1924年8月26日横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる146


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