003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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わけ埋立地の中心部はひどかった。火災も約三百か所発生。強風にあおられ、うち三十余か所からは旋風が起こり、猛火が市内をなめつくした。住宅被害は全焼・全壊・半壊・欠損を含めると当時の世帯数の九六パーセントというすさまじさであった。ちなみに、東京は七三パーセントだった。死者・行方不明者の合計は二三、三三五人で、当時の横浜市人口の五・二パーセントに当たる。首都東京では郊外世帯の被害が横浜より少なかったことで労働力も確保でき、内外から救援の手がすぐに差し伸べられた。それに比して横浜では郊外世帯の被害もひどく、救援に回ることもできなかった。道路も鉄道も途絶し、唯一の交通は船であった。衣食住どころか飲料水すらない生活が続いた。余震回数も減ると、市内に震災復興の気運が盛り上がってきた。横浜経済の基盤は貿易にあるが、港湾施設は壊滅状態だった。政府の復興計画は首都重視になりがちで、横浜から市長・市会議長や横浜市復興会(原富太郎会長)メンバーらの東京詣でが続いた。女性の社会参加が閉ざされている時代であったが、多くの女性たちが救援活動に参加、奔走した。今でいえば、ボランティアである。大震災から三か月を待たない一一月二五日には市内の女性団体のうち二〇数団体が集まり、「横浜連合婦人会(渡辺たま会長)」が発足した。中区太田町にあった横浜YWCA会館の焼け跡に仮事務所として設営したテントの中だった、という。それぞれ慈善活動や医療関係、社会教育活動で活躍し、長い実績を持つ団体ばかりである。145コラム関東大震災が生んだ横浜連合婦人会と日本初の民設婦人会館


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