003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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いっぽう、震災後、東京の女性団体も救援活動をきっかけに四〇数団体が集まり、「東京連合婦人会」が誕生した。社会部、授産部、労働部、教育部、政治部に分かれて活動していたが、その一番大きな成果が市川房枝らによる「婦人参政権獲得期成同盟会」の結成(一九二四年)であろう。「横浜連合婦人会」が家庭部、社会部、職業部、教育部を置いて活動していたこと(規約第二条)を思うと、性質の差異はある。国の政治との距離の違いもあっただろう。しかし、横浜の女性たちが資金的な経営力、事業を遂行する実務力、さらに組織力に長けていたことは今回の記録史料から明らかである。自力で会館建設を成し遂げた背景には、封建的な時代であっても、女性が事業を起こすことを容易にした商都横浜の特性が存在していたであろう。規約第一条には「本会は横浜市在住婦人の一致協力により相互の親睦を図り婦女子たるの美徳を発揮し、男女共存の健全なる社会を建設することをもって目的とす」と書かれている。今日から振り返ってみても、高い志の旗が翻っている。嶋田昌子(元中区女性フォーラム実行委員会事務局長)※本稿は「女性よこはま」(一九九六年四月一日付、横浜市女性団体連絡協議会)掲載記事に大幅に加筆修正したものです。147コラム関東大震災が生んだ横浜連合婦人会と日本初の民設婦人会館


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