003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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反対を表明し、東京連合婦人会も批判的態度をとった。横浜連合婦人会もすぐには加盟していない。それは日露戦争時に愛国婦人会と横浜奨兵義会婦人部を並立させながら、横浜の実情に応じた活動をしたのと共通する。それだけに総動員体制のなかで会を解散し、婦人会館を手放したのは無念だっただろう。•戦前の女性団体で会の歴史をきちんと残しているところは少ない。市川房枝が率いた新婦人協会と婦選獲得同盟がチラシやメモの類まで残しているのは稀有な例。その点、本冊子が残されたのは貴重だ。後半の連合婦人会を率いた野村美智の功績が大きい。•横浜連合婦人会の主なメンバーは、子育てが一段落した生活にゆとりのあるクリスチャン女性と、実業家の妻たちである。厳しい家制度が女の手足を縛っていた時代だが、彼女たちは家を留守にして元気に外を飛びまわっている。それが可能だったのは新興都市横浜の家族のあり方だろう。開港前はわずか百十一戸の漁村だった横浜の人口は、一八八八年には十二万人近くになり、一九一七年には四十六万人にふくれあがっている。それだけひずみも大きかったが、ほとんどよそから来た人で、舅姑が同居していない家庭のなかで、妻の自由度がより大きかったとみられる。夫たちも男女の役割分担を越えない範囲での妻の社会活動に寛容だったことになる。•渡辺たまの夫の福三郎は横浜を代表する豪商で、趣味らしい趣味を持たず仕事一筋の人だったという。彼は横浜の発展にさまざまな形で貢献しており、妻が関わった慈善事業、社会事業、教育事業にも多大な資金を提供して側面から支援した。妻に財産権がなかった時代、夫が判を捺すことで成り立った事業であることも認識しておきたい。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる142


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