003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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•横浜連合婦人会の会員には、多様な立場の人がいるが、主だった活動家は二宮わか、野村美智、時田田鶴、丹波美佐尾、三宅千代らクリスチャン。明治時代から社会事業を展開してきた教会婦人部やキリスト教系女学校の存在が大きい。一方、渡辺たま、上郎やす、田沼なる子らは熱心な仏教徒。一九二〇年に結成された横浜市女教員会も加盟しており、石川ふさは全国小学校連合女教員会の副会長だ。高学歴の女学校教師たちも協力している。このような人びとを束ねた渡辺たまは、渡辺玉子刀自景仰録」にあるように、人格に優れ、実務にも手腕を発揮する人であったことが、会のまとめ役としてふさわしかったのだろう。渡辺が亡くなったとき、クリスチャンの時田田鶴が書いた追悼文(『婦人新報』一九三九年一月一日)からは、渡辺の度量の広さがうかがえる。時田は渡辺が長年にわたって日本基督教婦人矯風会横浜支部の会員であったことを明かし、「刀自は宗教としては素より仏教を奉じておられるのであったが、公共事業に従事するに当っては、大乗的な仏教よりも、俗世界に接触の便を有するキリスト教に若かずとの見解を有されて、些かの毛嫌いなく能く我々と融和して、快活に事に当られたのだった」と書いている。みんなの力を合わせた連合婦人会館が完成し、財団法人にして組織を固め、これからというときに一五年戦争体制に入っていき、自主的な活動が充分にできなかったのは惜しまれる。しかし、多様な立場の女性たちが手を結ぶことで大きな目的を達成した成功体験は、戦後の横浜の女性たちの活動につながったのではないだろうか。143「横浜連合婦人会館史」解説


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