003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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開館した。そして、二〇〇五年、横浜市婦人会館から男女共同参画センター横浜南に改称した。まとめ•関東大震災の救援活動が一段落したあと、横浜連合婦人会は活動拠点としての婦人会館の建設に的を絞って、会員が募金に走りまわった。これは横浜独自の動きで、会の求心力を高めたし、女たちだけの手で立派な施設を作ったことは会員の誇りになり、その後の活動の励みにもなったはずだ。そこに行けば誰かに会えて交流が生まれ、二倍にも三倍にもなって活動の輪が広がっていく。拠点の大切さを認識していたことになる。•関東大震災後、東京でも救援のため東京連合婦人会が立ち上がっている。東京市社会局からミルク配りを頼まれたのがきっかけで、十月には立場の異なる四十二の女性団体が「大同団結」して発会。授産部、労働部、社会部、政治部、教育部などに分かれて活動を続け、そのなかから廃娼運動と婦人参政権獲得運動の強力な団体を生み出した。横浜には震災の前にも後にも女性解放を求める目立った団体の動きはない。女性の政治参加を求めた新婦人協会の支部があったが、震災後の動きは確認できない。•一九三〇年に「家庭生活の改善」と「家庭教育の振興」を掲げて発足した大日本連合婦人会は「時局対処」を言い、自主的な地域婦人団体を取り込んでいった。このとき抵抗なく参加したところと、官僚統制に批判を行う団体も少なくなかった。全関西婦人連合会は141「横浜連合婦人会館史」解説


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