003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


>> P.140

大日本連合婦人会の目的に添う内容になっている。国民精神総動員運動への協力が強制された一九四〇年には、奈良県で行われた大日本連合婦人会大会に山下せうら四人が出席、皇紀二千六百年記念講演会を神奈川県教化団体連合会・基督教諸団体共催で開催、聖旨奉戴横浜婦人団体代表者大会開催、神奈川県庁で行われた神奈川県連合婦人会に参加、少年保護記念日の催しに野村美智ら十二人が出席、基督教婦人矯風会などと母の日会を開催、県連合婦人会主催婦人拓殖講習会に出席、日本女子会館の開館式に出席など。一九四一年になると、宮崎の大日本連合婦人会主催の銃後全国婦人大会に参加。八月には役員の改選があり、ほとんど市の男性役人になった。一九四二年二月、日中戦争下に軍事援護を競って会員の取り合いになった官製団体の愛国婦人会、大日本国防婦人会と大日本連合婦人会が統合されて、大日本婦人会が結成された。既成団体は解散し未婚女性をのぞく二千万人の女性が強制的に加入させられた。これに伴って三月、横浜市連合婦人会も解散した。横浜連合婦人会館は、連合婦人会の解散にともない、横浜市に委譲され、横浜市婦人会館と改称し、事務所を中区港町一丁目一番地横浜市役所内に移転したのは四二年である。戦時中は軍隊の兵舎として利用され、戦火からは危うく逃れたものの、戦後の連合軍占領下では進駐軍勤務者も居住する宿舎「紅葉坂ホテル」になった。横浜市婦人会館として再建されたのは一九五二年である。その後、老朽化が進み、建て直すことになって七八年に閉鎖され、取り壊された。西区宮崎町の跡地は地盤が軟弱なことから、新会館は現在地の南区南太田の旧南公会堂跡に横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる140


<< | < | > | >>