003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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三四年四月一日には神奈川県連合婦人会が発会して、大日本連合婦人会に加盟している。県下地域婦人会五十三団体、三万余人を擁したが、横浜連合婦人会の組織ぐるみの加盟はまだだ。三二年三月に大阪で成立した大日本国防婦人会も陸軍をバックに急速に全国に勢力を拡大中。軍靴の音が大きくなっている。第4期横浜市の婦人会としての活動と、その後民間の自主的な女性団体として、大日本連合婦人会と並立しながら活動することに限界を感じたのだろう、一九三四年に渡辺たまから財団法人横浜連合婦人会の財産一切を挙げて市教育課に一任したいと申し出があった。そして三六年五月には会の事務一切を市教育会に移し、ホテルニューグランドで解散式を挙行しているので、この日を境に横浜連合婦人会に「市」が加わって横浜市連合婦人会になったとみられる。しかし、三七年十月二十九日には渡辺たまが亡くなって事務手続きが難航し、横浜連合婦人会館が横浜市連合婦人会館になるのは少しあとになるようだ。横浜連合婦人会と横浜市連合婦人会の構成員は、年齢がより若い人へと入れ替わりがあるものの、ほぼ同じと思われるが、「目的及び事業」は若干違う。横浜市内の婦人の連携を目指すという点は共通しているが、前者は「婦女子たるの美徳を発揮し男女共存の健全なる社会を建設する」とうたい、現在の「男女共同参画社会」にも通じるようだ。後者は「日本婦徳の発揚に資する」とのみ。事業内容も後者には「婦人の修養」が加わるなど、139「横浜連合婦人会館史」解説


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