003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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横浜連合婦人会もこの動きに左右される。すでに一九二八年の中頃から、「家庭及び家庭教育」をタイトルにした講演会や家庭衛生講習会などが散見されるようになり、二九年九月には上郎副理事長が県主催の教化総動員委員会及び講演会に参加し、十二月には会館で教化講演会を開催するなど、国が進める教化総動員運動に協力している。そして、大日本連合婦人会が発足する前の一九三〇年十二月、文部省から市内婦人団体の代表として理事を推薦するよう要請があり、野村美智が就任。さらに三一年、横浜地方幹事部の設置を求められ、幹事、賛助員ら計九二〇人が入会。同年には大日本連合婦人会の地方幹事部事務を市教育課で処理することになり、特別賛助員として渡辺たまら役員が推薦され、年額一〇〇円を拠出した。国から文部省社会局長や連婦の理事長が来て、じきじきに要請されれば、断ることはできなかったろう。以後、大日本連合婦人会横浜幹事部と横浜連合婦人会との並立状態が、後者が解散して三六年八月に横浜市に移管するまで続くことになる。この間の一九三一年九月には、満洲事変勃発。日本は暗く長い一五年戦争のトンネルに入っていく。非常時体制、国をあげての総力戦に女性たちも否応なく動員される。年表を見ると、満洲出兵将士慰問金五十円(三一年十一月)、市内戦死負傷兵遺族に浴衣地(三二年五月)、国防後援会横浜支部に一〇〇円(三二年六月)、防空演習に参加し(三三年七月)、満洲視察団に幹部が加わり(三三年八月)、教化団体代表者大会に出席し(三四年四月)、防空演習防護団配給班に参加(三五年九月)と銃後の女性運動に参加している。バザーや講習会の記録はしだいに減っていく。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる138


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